5-3 ヤクシャ

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『ジョン、猿の肉を狩ってこい』

 カイラス岳にたどり着く一ヶ月前。ジョンたちは陣地が崩壊した後にジャングルを敗走し続けていた。猛烈な飢えに苦しむ中、ジョンは小隊長から奇妙な命令を受けた。

 皮膚が貼りついた骸骨の顔の小隊長に睨まれ、怯えながらジョンは訊き返す。

『猿の肉?』

 猿の群れは木の上を素早く移動する。捕獲は不可能だ。小隊長から目を僅かに反らしながら、ジョンは小声で尋ねる。

『つまり、木登りしろと?』

『違う。その猿じゃねぇ』

 猿以外の猿とは何かとうんざりしながらジョンは再度訊いた。

『じゃあ、何です?』

 小隊長は足元を指さした。指差すほうを見ると、木に寄りかかる腐乱死体が目に入る。顔面が米粒のように膨れたウジに覆われて崩壊している。膨れた腹からは内臓が溢れ出ている。魚を腐らせたような激臭が、鼻腔を突く。

 死ぬほど臭いはずなのに、一週間ガラ空きの胃は空腹を訴えて縮こまる。

 くちゃくちゃ⋯⋯とウジが肉を食む音すら、今のジョンの胃袋には美味しそうに物を食う音として響く。

 小隊長は死体を指差しながら言う。

『これだよ、これ』

 猿──人間の隠語。ジョンの全身に小さな震えが走った。人間狩りを命じられたことに身体が拒否反応を起こしたのだ。ジョンの肩に小隊長の手が置かれ、猛獣が肉を掴むように伸び切った爪を立てられる。

『つまり、人間を狩ってこいということだ』

 ジョンは小隊長から目を逸らし、喉奥から声を振り絞るように言った。

『何の、ために⋯⋯』

『食うためだ』

 ジョンの首筋に噛みつこうとするように小隊長が耳に口を近づけて囁く。血なまぐさい息を吹きかけられ、声にならない掠れた悲鳴が飛び出た。

『ねずみと虫だけじゃ、俺達の肉は落ちてミイラになっていくだけだ。だから他人の肉を食って、自分の肉にする』

 小隊長の言葉がするりと耳に入り、腑に落ちる。現状、それしかないと判断した頭が落ち着いて、彼の声に耳を傾ける。

 小動物の肉だけでは体力を維持できず、落伍して捨てられる者が後を絶たず、ジョンの部隊は残り五人になっていた。肩越しに振り返ると、茂みの中でミイラのように皮と骨一枚になった島兵たちがいた。

 何か食べさせてやらないと、という使命感じみた意志が込み上げ、自然と背が伸びる。

 ジョンは小隊長の目を見て、芯の通った声で質問する。

『⋯⋯狩るのは生きてるやつっすか。それとも、もう動かねぇやつっすか』

 身体はもう震えていなかった。

 小隊長は口の端を歪めて答える。

『動かねぇのは、もう腐り始めてる。食える部位が少ねぇ。⋯⋯ジョン、お前はツルイチゴを見つけるのが得意だよな? なら、茂みの奥で震えてる「新鮮な猿」を見つけるのも、得意なはずだ』

 小隊長は赤黒く汚れた歯を剥き出しにして笑った。その歯には、かつて部下だった誰かの、あるいは敵兵の、乾いた繊維が挟まっているように見えた。

 ジョンは暫し黙り込んでから、頷く。

『⋯⋯俺、やるっす』

 それから食料提供のために、ジョンは島兵たちを狩り始めた。

 セルク島北部に敵が上陸し、防衛軍の陣地と部隊が壊滅してから島兵たちは散り散りになり、ジャングルをさまよっていた。戦闘不能になった彼らは少人数で固まって、食料を探すだけの廃人と化していた。

 そんな死にかけの彼らを襲って、食うのである。味方殺しならぬ味方食いだ。

 やると告げた以上、逃げ道はなかった。

 ある日の朝。ジャングルの茂みの中に、二人の人影があった。ジョンは木の陰に隠れて、人影の様子を伺う。ラグドル語が聞こえてくる。島兵だ。

 ジョンはマルチツールナイフを腰嚢から引き抜き、深呼吸する。島兵たちは茂みの中を漁っていて、こちらの気配に気づきもしない。

 不思議と躊躇いはなかった。蠢く島兵たちの痩せこけた肉体が、干した家畜動物の開きに重なって見えてくる。ごくりと動いたその喉が躊躇いか空腹によるものなのかすら、その時は判別できなかった。

 ジョンは木陰から身を乗り出した。そして間を置いてから駆け出し、島兵の振り返りざまに、ナイフの先を喉元に突き刺した。悲鳴を上げる間もなく血飛沫を噴き上げて倒れる相棒を見たもう一人の島兵が、皮膚の張り付いた顔を歪めて後退る。

 ジョンはすかさず飛びかかり、もう一人を仕留めた。

 案外やってみると、抵抗感が薄いことに気づく。北部戦線崩壊から二ヶ月近くろくに何も食べてない身体が、島兵たちを肉塊と錯覚させて躊躇を麻痺させてくれたのだ。

 それから何人もの廃人たちを仕留め、ジョンは『猿狩り』の技術を上げていった。

(猿狩りの腕、上がったな⋯⋯)

 射撃しろという命令から解放されたおかげで、本来の自分を発揮できるようになった。

 ジョンは敵兵の首からナイフを引き抜き、次の獲物を狙う。白い敵影は、闇の中に火の玉のごとく揺らめいていた。

 付近にいる白い影に狙いを定める。ふう、と一息ついて茂みの中をしゃがみながら接近したその時──

『タベル?』

 自分の身体から、子供の声が聞こえた。立ち止まって自分の手を見たジョンは、手の甲にへばりついた黒いもやを目にし釘付けになる。もやに無数の目玉が現れ、瞬きする。

『ニンゲン、タベル?』

 ジョンは手を振り払うのも忘れ、茫然と目玉を見つめる。

『マモノ、ナリタイ?』

 魔物、なりたい? と無邪気な声でそれが訊いてきた時、風切り音が鳴り、黒いもやは一瞬にして消えた。

 脳内でノリ一等兵の声がする。

『ジョン、君は人を喰いすぎた。もうやめろ、人間に戻れなくなるぞ』

 理解不能な発言にジョンは眉をひそめる。

『は? 何のことだか』

『とにかく人を食うな。後で缶詰やるから戦闘に集中してくれ』

 ファディルの声が割り込んでくる。

『ところでノリ、イルハム兵長はなぜ来ないのです。彼がいれば敵部隊を瞬時に壊滅可能ですが』

『あれがここに来たら遊撃部隊も餌にされるよ。ジョンも下手したらイルハム兵長のようになっちまう。まいったなもう』

『⋯⋯どういことです?』

 ファディルと同じことをジョンも思う。さっきから何の説明もなく意味不明な言葉をホイホイ並べるだけのノリに、いい加減うんざりしてくる。

 一つ分かったのは、そのイルハム兵長というやつが瞬時に敵部隊を壊滅させる超人ということだ。

(ん? 待てよ)

 ジョンはノリの言葉を整理する。

 ──君は人を喰いすぎた。やめろ。人に戻れなくなる。

 ──あれがここに来たら遊撃部隊も餌にされるよ。

 ──ジョンも下手したらイルハム兵長のようになっちまう。

 つまりイルハム兵長という人物も人を喰いすぎて、人間に戻れなくなり、敵部隊を瞬時に壊滅させるほどの力を得た、と解釈できる。

 凄まじい予感が胸を過り、ジョンは黒いモヤがへばりついていた手を見つめる。

 今まで何人も人を食ってきたジョンもいずれ人間に戻れなくはなるが、イルハム兵長のように敵部隊を殲滅する超人的能力を手に入れられるのではないだろうか。

 先ほどの黒いもやは、超人的能力獲得のチャンスだったのでは。

 胸の内側が焼け付くような悔しさに、ジョンは歯ぎしりする。

(ノリ一等兵殿、何余計なことしてくれたんすか)

 もうこうなったら、腹いっぱい人肉食って、また黒いもやに取り込まれてしまえばいい。

 ジョンは黒いモヤのいた片手を見つめる。手の甲に火傷のような赤黒い痣が残っていた。

(戻ってきてくれ)

 と、願う。

 人間など、もうとっくのとうにやめてしまっているのだから。

 もし人間をやめられたら、もう空腹に悩まずに済むかもしれない。

 それなら、人外化に賭けよう──。

「戻ってきてくれ、黒いの」

 痣に小さな線が無数に伸びだし、ぱっくりと開いて目玉が現れ、語りかけてくる。

『ニンゲン、タベル?』

『マモノ、ナリタイ?』

 今度は怯えることなく、ジョンはそれに答えた。

『魔物、なりたい』

 痣が拳大に膨れ上がり、その膨らみから皮膚下の血管が盛り上がって腕を伝っていくのを感じた。

「ひぃっ⋯⋯」

 皮膚下を虫の群れがぞろぞろと進むような、おぞましい気色悪さに襲われる。ジョンは草むらの中に倒れ込んで、メリメリと肌と肉の間を通り抜けていく何かの感触に悶絶した。

 やがてそれは胸から腹へ、両足へと広がり、ジョンは叫びながら陸に打ち上がった魚のごとく四肢を激しくばたつかせる。

『チカラ、アゲル』

 その声が聞こえた途端、ジョンの身体が突風に巻き込まれたかのごとく、高く宙を舞った。

 先ほど狙っていた白く光る敵兵が、遥か下に見える。冷たい風が軍服をはためかせ、耳を風切り音が掠めていく。何が起きたか理解が追いつかないまま、ジョンは木の上に浮いた。両手が勝手に動き、握ったナイフを振りかざす体勢を取り、敵兵めがけて急降下していく。

 臓物の持ち上がるような気持ち悪さが腹奥に走る。ジョンはわけがわからないまま叫び散らかし、こちらを見上げる敵兵の上へと飛びかかってナイフを彼の額へと突き立てる。ヘルメットと鼻の上の間に刃物が深くめり込み、敵兵は何が起きたかわからないといったような無表情で倒れ込む。

 ジョンは屈み込んで、ナイフを引き抜いた。片手の赤黒いコブには目がぶどうの房のように密集し、瞳をぎょろぎょろと蠢かせている。

(これが、魔物⋯⋯)

 指が意志に反して、ぐねぐねと虫のように蠢き、凍てつくような悪寒が背筋を張った。何か取り返しのつかない一線を越えてしまった後悔が、腹に落ちる。

 房のように寄り集まった目が、一斉にジョンのほうを見る。

『ケイヤク、カンリョウ』

 ジョンの足の中で何かが暴れ出して皮膚を押し上げ、軍服のズボンを引きちぎって膨張していく。

 恐慌し歯を鳴らしながら、ジョンは首を小さく横に振る。

「や⋯⋯め⋯⋯っ」

『ヤグラノモリビトノタメニ、ササゲヨ』

「やぐらの、もりび⋯⋯?」

 身体が宙に浮き、一瞬上下感覚が失われた。木々の枝の間を宙返りし、視界の中で天と地がひっくり返る。茂みの中に飛び降りると、目の前にいた敵兵の首筋をジョンは意思に反して突き刺した。

 白い光の中で噴き上がる血を、舌が勝手に舐め取る。身体が着ぐるみを被っているように感じられた。完全に何者かに乗っ取られ、神経の隅々まで支配されていた。

 麻痺したように動かない口の隙間から、ジョンは必死に声を絞り出す。

「た、すけ⋯⋯」

 ノリの声がした。

『大丈夫。君が意識を持っていかれないようにこっちで調整するからもう少し敵を狩ってくれ。こっちのほうが効率がいい』

「は、はぁ⋯⋯!?」

『全く、魔物め。粋な計らいどうも』

 さっきは人間に戻れなくなると心配していたのに、いきなり手のひらを返されてジョンは突き放されたような焦燥感に襲われた。

 ジョンは突風のように茂みの間を駆け抜け、次から次へと敵兵の首を割いては血を味わった。魔物の力なのだろうか、血から果実のように豊潤な甘みを感じる。舌に深く浸透する濃厚さが、脳を痺れさせる。

 血が喉を伝うたび、粘膜の焼けるような渇きを覚えて呼吸が苦しくなっていく。何日も水を飲んでいない時の渇きとは違う。水をたくさん飲んでも飲んでも喉が潤わないようなもどかしい渇きだった。

 胃液が喉をせり上がり、唾液と血と混じって口からあふれ出る。血を首の傷から搾り取ってじっくり飲みたいのに、身体は木々の間を通り抜ける木の葉のように素早く動いて止まらない。

「ノリ、いっとうへ⋯⋯」

『君が魔物になると選んだよね?』

 ジョンが敵兵を狩れたから、人間に戻すのをやめて利用するほうをノリは選んだのだ。

 だが、自分も人間でなくなることを選んだ。お相子だ。そう思うと助けを求める気持ちは萎えていった。

 どれぐらいの敵を葬っただろうか。闇の中で敵の放つ白い光は、ほとんど見えなくなっていた。

 ジョンの身体の動きが急に鈍くなっていく。全身が鉛のように重たい。操り人形の糸が切れたように、ジョンは茂みの中に倒れ込む。

 茂みの底の泥水を、ジョンは咳き込みながらも渇きに渇いてカラカラな喉に流し込んだ。

 白熱する頭の中で、ノリたちの会話がラジオのように繰り広げられる。

『敵部隊、撤退』

 地面にめり込む頭の中に、ファディルの無機質な報告が響く。

『遠くで隊長っぽい人が叫んでるね。逃げろって言ってんのかな。にしても撤退早すぎだろ』

『前衛の尖兵隊であれば早期撤退は普通です』

『あら、そうなの』

『⋯⋯しかし、一つ懸念が』

『何?』

『艦砲射撃要請の可能性があります』

『⋯⋯あー、邪魔な木を全部薙ぎ倒して山を丸裸にしてから攻め込もうってか?』

『そういうことです』

『でもさ、この山石灰岩だろ? 艦砲射撃来たも衝撃吸収して崩落しないって聞いたけど?』

 ファディルは黙り込んだ。当たってみなければわからない、と言いたげな沈黙だった。

 ぶくぶくと泥水に泡ぶくを立てながら、ジョンは茂みの中に身を埋もれさせる。

 ──嗚呼、結局人間に戻ってしまった。

 ◆ ◆ ◆

 薄暗い観測壕の中で、ノリが微笑みながら呟く。

「まさか、ジョンがヤクシャになってくれるとは」

 ファディルは横目でノリを一瞥しながら訊いた。

「ヤクシャ?」

「人を喰い、殺戮する鬼のヤクシャさ。この舞台を引き立てるためのね」

「⋯⋯ああ、役者ですか」

 それにしても、本当に劇のような光景だった。突然ジョン二等兵が宙を舞い、敵を一掃した。二度も三度も非科学的な光景を目にしなんとか演算が狂わない程度には慣れてきたが、それでもまだ腸が震えるような衝撃が残っている。

「ジョン二等兵は、人間ですか?」

「うん。化け物が取り憑いて、ちょっと化け物になっただけ」 

「ちょっと⋯⋯?」

 二十メートルはある木々の枝々の間を超高速で飛び交っていた。あれはもう完全に人間などではなかった。

 脳に『身体冷却式』が数千以上生成され、腹の中に氷を埋められたように冷えていく。ファディルは頭を抱えて息を吐く。

(イルハムといい、シヴァといい、化け物の巣窟ですね、カイラス岳は)

 ノリがいつもののんびりとした声で訊いてきた。

「大丈夫? 怖くて演算止まっちゃった?」

「いいえ、大丈夫です。それより⋯⋯」

 ファディルは額を押さえる指の隙間から、麓の軍路を見下ろす。

 逃げていく敵の青い粒子が上昇気流に乗って、上空に銀砂を撒いたような霧を作っていた。敵が撤退していく。心臓に冷たいものが走った。

 この山に防衛軍がいるとわかったならば、おそらくこの後に──

 ファディルは山裾の遠くに広がる海の向こうを見た。数万隻の軍艦が、海面を黒々と覆い尽くしている。

 敵の退避が終わり次第、あのどれかの砲身が火を噴くことだろう。

 ファディルは撤退していく敵の粒子を観測し距離を計測する。先頭、二十メートル通過。混乱のせいか、隊列は乱れている。

 軍艦や主砲の口径の大きさにもよるが、仮に重巡洋艦級の二十センチならば艦砲射撃の有効破壊半径は約五十メートル、殺傷、爆風範囲は約百メートルから二百メートル程度。敵の前衛が射程範囲内から脱出するまでまだ時間がかかりそうだ。

 ファディルは遊撃隊に命じた。
 
「遊撃隊、総員撤退」

『了解』

 全員の声がファディルの頭の中に響き、キンとした痛みが走る。まだこの非科学的通信方法には慣れない。

『はぁ!? 俺たち三十メートル登るんすかぁ!?』

 ジョンの素っ頓狂な叫び声が脳内にこだまし、あまりのうるささにファディルは顔をしかめる。

「艦砲射撃が来る可能性があります。ただちに退避してください」

『かんぽーしゃげき? なんすかそれ!?』

「やかましいです。さっさと退避してください、田舎者」

『へいへーい!』

 ノリが深呼吸して目を瞑りながら言った。

「みんな山道に入った。坂を上がってる」
 
 敵が先か、遊撃隊が先か。

 ジョンは化け物化すれば即戦力の兵器になる。損失するには惜しい。

(生存を希望します、やかましい田舎者)

 二時間が経過した。視界をズームし撤退していく敵部隊の粒子を観測する。彼らはカイラス岳から約三百メートルの沿岸付近まで移動していた。射程範囲内からはギリギリ逃れられたようだ。

『あー! つっかれたぁー!』

 突然ジョンの金切り声が響き、ファディルは頭を抱える。

『遊撃隊、無事退避完了』

「お疲れ様です⋯⋯」

 頭の芯に走る痛みに歯を食いしばりながら、ファディルは返す。

 ノリの声がした。

「そろそろだ」

「何が?」

 ノリがこちらを見上げて、微笑む。

「班長、自分を取り戻すんだ」

 言われたことを呑み込めず、ファディルは黙り込む。

「班長は、操り人形なんかじゃない」

 ノリはゆっくり立ち上がった。彼の身体から白い霧のような淡い光が立ちのぼり、全身が輝き出す。ファディルは一歩後退った。

「ノリ⋯⋯?」

 光の霧に包まれ純白に染まるノリは、歯を浮かせて笑った。

「貼り付けられた英雄のレッテルも、神による無意識の改ざんも、全てはお前を支配する虚構だ。もう他人の干渉に振り回されないで生きてくれ」

「ノリ、何ですその光は⋯⋯」

「最後の役者の出番が来る。その役者は、この僕だ」

「役者⋯⋯?」

 ノリは頷き、銃眼を指差す。

「班長、来る」

 ファディルは外を見た。視界をズームすると、数万隻の艦隊の中に、ゆっくりとこちらへ砲身を向ける重巡洋艦数隻がいた──

(艦砲射撃⋯⋯!)

「ノリ、ただちに退避します」

 ファディルはノリの腕を引いて観測壕の階段へ向かおうとする。ノリは立ち止まって動こうとしなかった。

「ノリ、急いでください」

 ノリは首を横に振る。

「間に合わない」

 腸に焼けるような熱が走る。

「しかし⋯⋯っ」

「それに、もう決まっているんだ」

「何が」

 観測壕の記録室から、観測兵の悲鳴じみた叫び声が轟く。

「艦砲射撃! 艦砲射撃! 総員鍾乳洞へ退避!」

「班長! ノリ一等兵! 急いでくださいっ!」

 ノリの全身から噴き上がる光の霧が濃くなっていき、真っ暗な観測壕の空間を淡白く輝かせる。

「班長、大丈夫。僕がお前を守るから」

 光の中で、ファディルは呆然とノリを見つめた。彼の黒髪が、徐々に根元から毛先へかけて白銀に染まっていく。ファディルと同じ、銀髪に。

(髪の色が⋯⋯)

 ノリが瞼を開いた。ルビーのような澄んだ赤い瞳が現れ、ファディルは息を呑む。

 自分と同じ、銀髪赤目。

(私と、同じ色⋯⋯)

「びっくりした? 本当はね、僕は班長と同じだったんだ」

 ──一瞬、外が真昼のように光った。

 閃光が網膜を焼き、その数秒後、遅れてやってきた大気を引き裂くような咆哮が鼓膜をつんさぐ。

 ファディルの身体が突風に吹き飛ばされ、紙切れのように軽々と宙を舞った。

 ──終わった。

 上下左右の感覚を失い、白熱する世界を見つめながら、そう思う。

 0.0001ミリ以下まで切り刻まれる木々と葉の粉塵が視界を覆い尽くす中、ファディルだけが形を維持して浮かんでいる。

(なんだ、これは⋯⋯)

 違和感に意識が研ぎ澄まされていき、ふわりとした空気のようなものが全身を包み込んでいるのを感じた。

 見えない何かに包まれた身体が、ゆっくりと降下していく。地に足が付き、脱力したファディルは膝から崩れ落ちた。

 目を開けると、足元に地面が見えた。観測壕のコンクリート床だ。視線を上げた先に、ノリが横たわっていた。

「ノリ⋯⋯!」

 身体を引きずるようにして駆け寄る。ノリは赤い瞳で宙を呆然と見つめ、天に向かって片手をかざしていた。

 ファディルはノリの方を揺さぶる。

「ノリ、ノリ」

 ノリは口元に弧を描いて微笑む。

「僕は大丈夫さ。班長は?」

「私は大丈夫です」

「そっか。よかった。艦砲射撃なら僕が結界で防いでるから、大丈夫だよ。ほら、見て。空を」

 天を仰ぐと、観測壕の天井が無くなっており、空を油膜のように揺らめく透明な膜が覆っていた。膜の外で、砲弾が粉々に砕けて砂煙のようになっているのが見える。

 ノリが激しく咳き込む音がして、ファディルは視線を落とし、震え上がった。彼の口から血飛沫が噴き出し、軍服の胸元を赤く染めていく。

「ノリ⋯⋯ッ」

 ノリは上半身を仰け反らせて何度も血反吐を吐き、赤く染まった口に笑みを浮かべる。

「びっくりしたでしょう? 僕も銀髪赤目になっちゃって」

 ノリの赤い瞳が浮かぶ目縁からも血が滲み出し、涙のように垂れ落ちていく。

 ノリは咳き込み、血に喉を鳴らしながら枯れた声で言った。

「僕が⋯⋯櫓の守り人だ」

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