4-2 血まみどろアフタヌーンティー

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(ラフマン⋯⋯遅いなぁ⋯⋯)

 ウタリは天井を呆然と見つめる。 

(イチジカンって、遅いのかな?) 

 少し視線を下げると、ボサボサの銀髪が見えた。ところどころ、ウタリの返り血で赤く染まっている。 

 さっきからお腹の中をファディルに小さい包丁でぐちゃぐちゃにされて、カチャカチャうるさいし、くすぐったい。思わず笑っちゃうと、静かにしてくださいと囁き声で叱られてしまう。

「ねぇ、ファディル」

 ファディルが顔を上げる。眼鏡も頬も、返り血でびちゃびちゃ真っ赤に塗れていた。前髪から血の雫が滴っている。カサカサにならない程度にって言っていたのに、凄く濡れている。

(血まみれ⋯⋯)

 お腹を切ったからたくさん血が出たんだ。兵隊さんのお医者さんにお腹を切られた時の記憶が蘇り、肌が氷に埋もれたように寒くなる。

「血がたくさん出てるよ?」

「そうですね」

 ウタリは半泣きで首を横に振った。

「カサカサになるよ、こんなにいっぱい血が出たら。⋯⋯ひっく、ウタリ、怖い⋯⋯ひっく、やっぱりメイドごっこやめる⋯⋯ひっく」

「ご安心ください」

 ファディルはお茶を飲むカップを摘み上げて、下に向ける。カップからたくさんの血がウタリの腹の中へ落ちていく。

「あなたのお腹の中には、たくさんの血が溜まっています」 

 ウタリは思わず上半身を起こし、悲鳴じみた叫び声を上げる。

「切ったの? ウタリの中!⋯⋯ひっく!」

「しかしお腹の中に血を溜めておけば、カサカサにはなりません。ただしこれが外に出ると、カサカサになります」

 まるでウタリの身体の仕組みを知っているかのような口ぶりに、ウタリは眉をひそめる。

「何でお腹の中に血が溜まっていたらカサカサにならないってわかるの?」

「壊れたお皿の話しを思い出してください」

「あ、そうか。お肉と一緒で、血が中に入っていれば大丈夫ってこと?」

「そういうことです」

「お腹に血を溜めた状態であれば、どんなに細かく中身を切り刻んでもすぐに再生します。ほら、お腹から音がするでしょう?」

 お腹の中から確かにぐちゅ、ぐちゅと生々しい音がする。内臓や血管が治っている音だろうか。ファディルの言う通り、本当にお腹の中に血を溜めていればすぐ治るのだろうか。

「だから、私を信じて。安心してください」

 私を信じて。その言葉がすぅっと頭の中に入ってきて、強張っていた身体が少しずつ緩んでいく。

(本当は、ちょっとだけ、まだ怖い。でもファディルが言うなら大丈夫なのかも)

 ──ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 雫が垂れる。

 ファディルはずっとお腹の中をいじり続ける。ウタリはぷっくりした自分の手を見た。カサカサしてきてない。ずっとやわらかくて、つるつるしている。

(ほんとに、大丈夫なんだ⋯⋯ウタリ、全然カサカサにならない)

 血まみれの顔のファディルをウタリは見上げる。

(ファディル、何でカサカサにならないってわかったんだろう)

 壊れたお皿のお話は、どうやって思い付いたんだろう?

 兵隊のお医者さんは何も知らないから、ウタリをカサカサにしちゃったのかな。もしかしてファディルのほうが、兵隊のお医者さんよりウタリに詳しい?

(だったら、ファディル凄い)

 ウタリはまたぎこちなく笑う。ファディルを信じたら、もう大丈夫な気がした。

 ──ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 ずっとずっと雫が垂れる。

 ラフマンが帰ってこない。イチジカンで帰ると言っていたけれど、イチジカンがわからない。

「ねぇ、ファディル」

「⋯⋯何です」

「イチジカンってどれぐらい」

「⋯⋯六十分です」

 ラフマンと同じことを返されて、ウタリはぷぅっと膨れる。

「わかんない。イチジカンとか、ロクジュップンとか」

 包丁がざくっと何かを切り、くすぐったさにウタリは身をよじりながら笑う。

「⋯⋯学校には、通われていなかった
のですか?」

「学校? 行ったことない」

「⋯⋯では、わからなくて当然ですね。教えて差し上げます」

 ファディルはウタリのお腹の中をナイフでトン、トン、トンと叩いた。

「これが三秒」

 ──トン、トン。

「これが二秒」

 ──トン。

「これが一秒」

「トン、トン、トン⋯⋯三回叩いたら、サンビョー?」

「正確には、トンとトンの間を秒といいます」

「トンとトンの間?」

 ファディルはまたお腹の中をトン、トンと叩いた。

「この間が、一秒間」 

「へぇ⋯⋯」

 ウタリは石からぽたり、ぽたりと垂れる水滴を見上げる。

 ──ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 ぽたりとぽたりの間が、一秒間。

 ──ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 一秒間が、たくさん落ちてくる。

「イチジカンって、何秒なの?」

「三千六百秒です」

「さんぜん、ろっぴゃく?」

 そんなに数えられない、とウタリはがっかりする。

(あと何回ぽたり、ぽたりを繰り返せばラフマンは帰ってくるのかな)

 メイドごっこもなかなかはじまらないし、つまんない。

「ねぇ、ねぇ、メイドごっこまだ?」

「あと少しでお料理が終わります」

「え? お料理してたの? ウタリのお腹の中で?」

「⋯⋯はい」

「ウタリのお腹、台所だね!」

 きゃはは、と笑う。

「黙っててください。気が散ります」

「ごめん、ごめん。何のご飯作ってるの?」

「先ほど何箇所かを味見したところ、果物や野菜の味がしました。カプレーゼかコンポートにしたら、きっと美味しいでしょう。肉を薄く切って重ね、固めてテリーヌ、ミルフィーユにするのもいいかもしれません」

「かぴゅれーれ? きょんぴょーと? ちぇりーにゅ? みるぴーゆ? ウタリわかんない」

 ──トン、トン、トン。

 お腹の中で、ファディルがお野菜と果物を切っている。 

(でもウタリのお腹の中に、お野菜と果物あったっけ? 内臓がお野菜と果物かな? うーん、わかんないや)

「ねぇ、果物は甘いけど、ウタリのお腹って、そんな味するの?」

「はい──」

 ファディルはウタリの内臓について色々解説してくれた。難しくて全然わからない。何でお砂糖いっぱい入っているのかな。

 ファディルが顔を上げて、曇った眼鏡を取った。眼鏡の縁がなくなったことで、素の顔が見える。切れ長の目の長いまつ毛や目ぶちが、くっきりと。ただでさえ整った顔が、もっと、もっと整って見えて、ウタリは息を呑む。

(綺麗なお顔⋯⋯)

 心臓がどきどきしてきて、顔も熱くなってくる。

 ファディルがウタリのほうを見た。形の良い目ぶちの中でぼんやり光る赤い眼差しが、突き刺さる。

「どうしましたか?」

 じっと見つめられると、もっと早く心臓が動き出した。

「な、何でもない⋯⋯」

 ファディルはウタリの手をそっと握って、手首辺りに親指を柔らかく押し付ける。手を握られると、皮膚に痺れるような、むず痒いような、不思議な感覚が走る。

「心拍数急上昇、これは一体⋯⋯」

 ファディルは不思議そうに眉をひそめた。

「お料理は終わりです」

 最後にファディルはウタリのお腹に何かを詰め込んで、真っ赤に濡れた眼鏡を拭いた。

 腹の中に押し込められたものの異物感に、ウタリは身もだえる。

「お腹の中、変な感じする! 何を入れたの?」

 ファディルは眼鏡をかけ直して、額を手の甲で拭う。

「──ジンニクです」

「ジンニク? なにそれ」

「人間の肉、です」

「へぇ。美味しいの?」

 それ以外何とも思わなかった。ウタリにとって、人間と動物の肉の違いなんてよくわからなかったから。

「すっぱくてしょっぱいらしいです」

「ファディルは、人肉食べたことあるの?」

「いいえ。食材には適していませんので」

 ウタリは頭をあげ、ぱっくり割れた自分のお腹を見つめる。

「⋯⋯んでさぁ、何でジンニクウタリん中入れるの?」

「あなたをカサカサにしないためです」

「あれ? 血を溜めておけばカサカサにならないんじゃないの?」

 ファディルは大きい背嚢の中から何個も空瓶を取り出した。中に赤いお肉みたいなものが入っている。

「今から血を抜きます」

 ぞくっと背中に冷たいものが走って、手足が自然と跳ね上がる。ウタリは頭を横に振り、ひきつった声で拒否した。

「い、いや⋯⋯血抜くのは嫌!⋯⋯ひっく、ひっく」

 ラフマンに抱きしめられたぬくもり、彼の温かい笑い声が恋しくなる。

「泣いたら、鬼が来ますよ」

 ファディルの言葉がスッと風のように頭の中へ入ってきて、咄嗟にウタリは口を押さえた。

 泣いたら、お絵描きペンをファディルに取り上げられてラフマンに嫌われてしまう。

 ウタリはもう片手に握っているお絵描きペンを、ぎゅっと握り締めた。
  
 喉奥から突き上げてくる大きな何かを必死に出てこないように堪える。しばらくすると、大きな何かは諦めたように引っ込んでいった。

 震えるウタリの頭にファディルはそっと手を置き、そっと撫でる。

「安心してください。血を抜いても絶対に、あなたをカサカサにはしません」

「絶対に? ほんと?」

「──絶対に、です。あなたのお腹の中に入れたものが、カサカサになるのを防いでくれます。これから証明いたしましょう」

 ファディルの淡々とした声には、確信をもっているように芯があった。ウタリは震えながらも、頷く。

「絶対、だよ? カサカサに、しない?」 

「約束しましょう」

 布越しから、突然大きなリュックが出てきた。大きなリュックだ。外に誰かいるのかな? 足は見えない。ファディルはリュックを開けて、ガラスの空瓶をたくさん取り出した。

「血を抜きます」

 それからファディルはウタリの腕の血管をナイフで切って、空瓶の中に血を注ぎ始めた。時々お腹の中に『ジンニク』を入れて、また腕を切って血を注いでを繰り返す。ウタリは傍らに置かれた瓶に血が溜まっていくのを見つめる。

 瓶が満杯になったら、ファディルは次の空瓶を取り出す。ウタリは自分のふっくらした手を見つめて、息を呑んだ。どんなに血を搾り取っても、いつまで経ってもウタリの手はカサカサにならなかった。

(どうして? カサカサ、なんない?)

 疑問が口から飛び出す。

「ねぇファディル。たくさん血を抜いているのに、何でウタリ、カサカサにならないの?」

「あなたの身体が、ジンニクを食べて血を増やしているからです」

「何でわかったの?」

「あなたがカサカサになって回復した原因が、ジンニクだとわかったからです」

「へぇ。ジンニクのおかげだったんだね」

 ウタリは、ジンニクをくれた誰かさんに感謝した。

「ウタリにお肉くれて、ありがとう」

 続いて、ウタリはファディルの血まみれの顔を見る。

「ファディルも、ありがとう」

 ぽたり、ぽたり、ぽたりが何度か続く。ウタリの周りには、血でいっぱいの真っ赤な瓶がたくさん並べられた。

「──終わりました」

 ウタリはもう一度自分の手を見る。ふっくらしていて、瑞々しい。

「カサカサ、なってない」

 ジンニクがあれば、もうカサカサにならなくていい。

「ファディル⋯⋯」

 ウタリは起き上がって、ファディルを抱き締める。身体がびっくりするぐらい細くて、背中に手を回すとぼこぼこした骨の感触を服越しに感じた。

 洗濯板みたいだ、と思った──。

 お腹の傷口から垂れた内臓がファディルの軍服にくっついて、濡らしていくのを感じた。

 胸の中が、じんわりと温かくなる。火が灯ったように柔らかい熱が広がっていく。

「ウタリ⋯⋯ウタリッ⋯⋯」

 自然と声が震えた。目の奥が熱くなってきて、目縁から温かい涙が零れ落ちる。 

「怖かった⋯⋯カサカサ、ずっと怖かったの⋯⋯」

 怖い、嬉しいが混じったようなわけのわからない感情がぐちゃぐちゃに混じって、胸の中で暴れている。

 胸がはち切れそうになるほどいっぱいになっていく何かを吐き出すように、涙が止まらなくなる。

 ファディルはウタリの小さい身体を抱き締めて、血でガビガビになった髪の毛を撫でてくれた。

 皮が薄くてほとんど骨のような、折れちゃいそうなくらい細い指で。

「怖かったですね⋯⋯」
  
 確かめるように、ウタリはもう一度訊く。

「カサカサ、もうならない⋯⋯?」

「もう二度と、なりません」 

 ウタリはぎゅっとファディルを抱き締める。

 ファディルがウタリの耳元で囁いた。

「お絵描きペンを折ってください」

「え⋯⋯」

 ウタリはファディルから離れて、手に握り締めたお絵描きペンを見つめる。

 これを折ったら、ラフマンに嫌われる。

 ウタリはお絵描きペンを守るように胸にぎゅっと押し付ける。

「い、嫌だよ⋯⋯だって、これ折ったらラフマン、ウタリのこと嫌いになる」

「ラフマンはあなたが眠っている間、お医者さんたちに血を抜かせました」

「⋯⋯え?」

 聞いてもいないびっくりするようなことを言われ、ウタリは唖然とする。ウタリが一番怖いことを、ラフマンがした?

「あなたが川で遊んで眠った後にです。ラフマンは眠ったあなたをお医者さんのところへ連れていき、血をあげたのです。カサカサになるかもしれないのに。全く酷い奴です」

「嘘! ラフマンはそんなことしないよ!」

「私はずっとあなたたちの川遊びを見ていました」

 ウタリは思い出す。ラフマンと遊んでいる最中、確かにファディルとノリが茂みから見ていた。寝た後のウタリのこともファディルはきちんと見ていたのだとしら──ラフマンは、本当に⋯⋯。

 信じたくない事実を突きつけられて、ウタリは頭を小さく横に振り、精一杯の抵抗を見せた。

「そんな⋯⋯ラフマンは、ウタリが怖いことしないもん⋯⋯」

「本当です。私は見ていました。ラフマンは、あなたを裏切ったのですよ」

 ウタリは激しく首を横に振り、頭を押さえて叫ぶ。

「そんな⋯⋯っ!」

 川遊びしている時、ラフマンはお医者さんにウタリの血をあげようとにこにこしながら考えていたのだろうか? 嘘だと言ってほしかった。

「それを折れば、ラフマンはあなたを嫌いになり、お医者さんに血をプレゼントすることもなくなります。どうしますか?」

 ラフマンがウタリに酷いことをした。でも、いきなりそれを言われても、抱きしめられたことや遊んでもらったのが楽しかったのは本当で、ウタリは選べず呆然とするしかなかった。

「折るのが嫌ですか? それなら、私は二度とあなたにカサカサにしないおまじないはしませんよ」

「や⋯⋯やだっ!」

 言葉が唇を押し開いて勝手に飛び出す。身体がカサカサになるのを嫌がっていた。

「ならば、折ってください。もう、怖い思いはしたくないでしょう?」

 ウタリは俯いて、お絵描きを両方の手で持った。

 ラフマン、何で血を抜いたの?

 でも、また遊んでほしい。

 色んな思いが込み上げてきてぐちゃぐちゃに混じり合う。

 でも、ラフマンにまたカサカサにされそうになるのは嫌だ。

 嫌だ、と思った瞬間手に力がこもって、パキンッと簡単にお絵描きペンは折れてしまった。

「あ⋯⋯」

 真っ二つに折れたお絵描きペンをウタリは見下ろす。

「折れちゃった⋯⋯」

 ウタリの中で、遊んでくれたラフマンの笑顔が遠ざかっていき、消えていく。

 残ったのは、何もかもが抜け落ちて空っぽになった頭。

「よくできました。これでもうラフマンはあなたに近づくことはありません」

 ファディルの言葉が、空っぽの頭にスーッと染み込んで入ってくる感じがした。

 ウタリはファディルに寄りかかって呟く。

「血を抜く時は一緒にいて、ファディル」

 ふわふわした優しい感じに包まれて、ウタリは微笑みながら目を閉じた。

 ◆ ◆ ◆

(──上書き、成功)

 ファディルはウタリを抱き締めたまま、無表情で壁を見つめていた。

(人肉を医薬品の中に埋め込めば、乾燥状態にならず大量採血できる)

 これで『献血機関』の試験運用が可能になる。

(ラフマン二等兵による医薬品の保護も不要になりそうですね)

 医薬品の安全基地はファディルになり、ラフマンは脅威となった。今後ラフマンは医薬品の精神を脅かし、最高機密保護官失格になるだろう。

 これでラフマンという邪魔者はいなくなり、今後好き放題医薬品の実験ができる可能性が高くなった。

「イルハム、血の入った瓶を鍾乳洞へ持っていってください」

 遮光布が捲れて、イルハムが入ってきた。呆れたような声が頭上から降ってくる。

「派手にやりやがって⋯⋯」

 ファディルは血の入った数十個の瓶を背嚢に入れ、イルハムに言った。

「これを観測壕の鍾乳洞へ。勝手に飲まないでくださいよ」

 イルハムは背嚢を背負った。

「ウタリの血は飲めねぇ。まずい」

「なるほど、私たちとは味覚が違うのですね。人肉を食えるなんて、信じられませんね」

 イルハムは人肉を平気で食う。あんな鉄臭くて、嗅いただけで吐きそうになるものをよく食べられるものだ。

「どの口が言うんだよ」

 嘲笑うようにそう言った時、イルハムの姿が突然音もなくその場から消滅する。風さえ発生せず、存在そのものが一瞬で消え去った。

 背筋を氷のように凍てつくものが走る。

 ファディルの神眼が、消えたイルハムを捉えようとする。

(物理的に消滅、並びに生体反応粒子消滅──原因、不明)

 ノリが試射なし一発をやった時と同じ反応が出ていた。数式が大量のノイズと歪みで掻き消されていく中、ファディルはイルハムのいた空間を見つめていた。

 ◆ ◆ ◆

(ウタリの奴、ひとりぼっちで怯えてなきゃいいが)

 壕内の蒸し暑い通路を歩きながら、ラフマンはアリフ隊長との会議の内容を思い出す。

 ──ウタリの血は、衛生隊が要求すれば衛生兵が抜き取りに来る。

 ──献血の際、ラフマン二等兵はウタリに付き添うこと。

 ──ウタリの血のことは『衛生隊本部の極秘試験薬』と偽装。

 ──ウタリの血で治療した島兵のカルテは全て『試験薬投与』と記載する。

 ──極秘試験薬の運用については、遊撃区各陣地の衛生隊現場責任者間で取り扱い手順のみを説明。だが、薬の中身や出所、成分の詳細までは一切明かされていない。

 ──ウタリの血は遊撃区外への持ち出し厳禁とした。使用済み瓶は全回収。外部に持ち出されて研究所に運ばれれば、血液だとバレるからだ。

 ──アリフ隊の全兵には『試験薬』と言うよう口封じの指示をしておいた。

 ──極秘だと伝えているのに出どころの説明を求める者には、「衛生隊本部に問い合わせろ」と突っぱねておく。

 ──保護官の貴様にはウタリの様子を鑑みて衛生隊に意見具申する権限を与えるが、最終的な決定権は衛生隊長にある。

 これであれば、ウタリのことを知らない別部隊の衛生隊や上層部から血の出どころを尋ねられても、「極秘です、説明義務はありません」とごまかせる。

 それでもなお説明しろと詰め寄る奴が本部に問い合わせたところで、「現場が極秘と言うなら極秘事項です、説明はできません」と返されるのが関の山だろう。  

 ウタリの血も、幸い果汁ジュースのような香りであるため、別部隊の衛生隊は薬品と信じてくれたらしい。 

 これでウタリはアリフ隊のみならず、セルク島防衛軍の最高機密と化した。

(極秘の試験薬、か⋯⋯)

 アリフ隊は、完全にウタリをモノ扱いにする気だ。だが、ウタリには申し訳ないが仕方ないことだ、とラフマンは割り切っていた。敵の襲撃から命からがら逃げてきた島兵部隊が、各方面よりこの遊撃区へ編入されてきている。おかげで現時点で負傷兵多数。本格上陸までに医薬品が枯渇する可能性も十分にある。

 そうした現実を見れば、アリフ隊がウタリを医薬品として利用したがるのは当然のこと。

 わかっているのに──胸の痛みはそれでも消えない。

 何度も「医療行為だ、仕方ない」と自分に言い聞かせた。でも、ウタリの涙や怯える声を想像するだけで、どうしようもなく胸が疼く。

 無意識に、手を握りしめる。

 戦死傷者が多発する地獄で、「かわいそう」「やめてあげて」と思うのは甘えだと、重々承知の上のはずなのに。

 背後から誰かがやって来た。あれに見つからないようにウタリ壕へ行かなければ。ラフマンは慎重な足取りで進んでいく。最高機密を守るためには行きも帰りも、出入りも命がけだ。

 後ろからすれちがった奴を横目に見ると、不思議なことに目をつむりながら歩いていた。それに、見覚えのある顔だ。すぐさま誰か思い出し、ラフマンは声をかける。

「ノリ一等兵殿」

 ノリは立ち止まり、こちらを振り返らずに答える。

「ラフマン二等兵、班長見なかった?」

 ノリの声は静かな怒りに燃えていた。

「いいえ」

「あいつ、休憩時間に勝手に持ち場を離れやがった。あとで砲兵隊長になんと言われるか。お前、あのクソメガネの飼い主だろ! 何してるんだって」

「飼い主って⋯⋯」

 憤るノリには申し訳ないが、ラフマンは思わず笑ってしまう。

「こっちから班長の気配がするんだ」

 索敵能力を使っているのだろう。三階に班長が? とラフマンは疑問に思い、ふと胸を過った違和感に眉をひそめる。

(観測壕ってここからかなり離れているはずだぞ)

 アリフ隊長室で見た遊撃区壕内の地図を見たが、観測壕とウタリ壕はかなり離れた位置にある。

 違和感が、冷たさを伴って恐怖に変わっていく。

(まさか、あいつ──!)

 ラフマンは早足で歩き出す。ノリもその後ろに続く。

 ファディルは行軍中の大休止、小休止時間にウタリのことをいつも監視していた。異常なまでの執着心に、ラフマンは内心怖気を感じていた。

 現にファディルは持ち場を離れるというあるまじき行為を行っている。ウタリへの好奇心がこじれて、とうとう軍務放棄までやらかしてしまったのだろうか。

「まずい、ウタリが!」

「どうしたの?」

「あいつ、ウタリ壕にいるのかもしれません」

「何だって!」

 ラフマンとノリは駆け出した。第三者にウタリ壕は絶対にばらしてはいけないとアリフ隊長には言いつけられている。

 だが今は状況が変わった。クソメガネの飼い主であるノリがいなければ対処できないかもしれない事態が、迫ってきている。

 ラフマンはウタリ壕の入口に向かった。遠くからウタリの軽快な笑い声がかすかに響いてくる。

「きゃははは! おっかし〜! ねぇねぇ! 美味しいのそれ?」

 美味しいの、それ。誰かへの問いかけ。背筋をぞわっと寒気が駆け上がる。

(あ、あいつ、やっぱり⋯⋯)

 神眼で、ウタリ壕の場所を突き止めたのだろうか。

 ノリの呆れと焦りの混じったような声が背後から響いた。

「奥から班長の気配がする! あの馬鹿、何やってんだ!」

 一目散に駆け出し、ラフマンは石を避けながら奥へ進んでいく。垂れ下がる石に顔がぶつかり、転んで背中を柱の先端に打ちつけ、それでも必死に立ち上がって、奥へ。

 やがて通路の奥にランプの明かりが見えた。地面に伸びる光の中に、影が二つ。

(いやがる!)

「きゃはは! いいねいいね! もっと召し上がってください、ファル坊ちゃま」

 果汁のような爽やかで甘ったるい匂いが、遮蔽布の向こうから漂ってくる。この匂いは、ウタリの血。

 ラフマンはいきおいよく遮蔽布をめくった。

 最初に目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった地面。赤くぐっしょり濡れた二つの寝袋。

 その上に座る、銀髪赤目の二人。

「お味はどうですか? ファル坊ちゃま」

「大変美味です」

 二人の顔も服も、全身が血で真っ赤に塗れている。

「お、お、おまえ、ら⋯⋯」

 二人が同時にこちらを見る。返り血を浴びた無表情のファディル、表情を引きつらせてこちらを見るウタリ。

「ラフマン⋯⋯!」

「⋯⋯何ですか」

 二人の間には、大量の肉物がのった皿が一枚。そこにあるのは、血と黄色い皮下脂肪でぬらつく内臓の破片、肉物、目玉、指、髪の毛の山盛り──。

 ラフマンは腰を抜かし、後退り、奇声を上げる。

「あぁ⋯⋯ああぁぁぁぁっ⋯⋯ああぁっ!」

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