3-13 神の寵児

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 精霊に導かれながら歩き続けると、闇の向こうに無数の青い光の玉が飛び交っているのが見えた。蛍の群れが追いかけっこをするように素早く、点滅しながら宙を舞っている。

「精霊たちは何してるんだ?」

『集まって祝福しているのさ』

「何の祝福です?」

『神に選ばれし者が集ったのを祝う祭』

「神に選ばれし者?」

 精霊の集う場所に近づいていくと、ウタリのあどけない笑い声が聞こえてきた。

「何やってるんだ、あいつ」

『精霊追いかけてる』

「ははっ、楽しそうだな」

 茂みが途切れ、くるぶし程度の雑草が生い茂る草地に出る。

 ラフマンは息を呑み、その場に立ち尽くす。

 そこは、一軒家の敷地程度の狭い草地だった。

 精霊火が目にも留まらぬ速さで闇の中を駆け巡り、それをウタリがキャッキャと笑い声を上げながら追いかけている。両手でぱしっと捕まえようとしてもすり抜けて逃げられる。それでも諦めずに、また一匹捕まえようとする。

 精霊火の舞う中に、ぼんやりと光る何かがあった。淡白いもやが草地を照らし、光の輪に草の輪郭を浮かび上がらせている。その光の中に、ほっそりとした体型の誰かがいた。

 軍服を纏った華奢な青年だった。毛先がぱさぱさ飛んでる銀髪、鹿の目のように光る赤い目、眼鏡──ファディルだった。

 神々しい光を放つファディルを、ラフマンは我を忘れて見つめた。

(なぜ全身が光っている? 目も⋯⋯)

 風が吹いていないのに、銀髪の毛がゆらゆらと舞い上がっている。虚ろな眼差しで宙を見上げる横顔は、目鼻立ちが人形のごとく整っていて──

 目を奪われるほどに、美しかった。

 化け物じみた銀髪赤目、冷血な彼はそこにいなかった。まるで星空をうっとり眺める少年のような、幻想的な雰囲気があった。外道とは全くもってかけ離れている。あいつが本当に幼い子供を解体しろと命じたのか、と一瞬疑ってしまう。

 突然肩を叩かれ、ラフマンは素っ頓狂な悲鳴を上げる。

「綺麗だろ、班長」

 ノリの声がすぐそばで聞こえた。振り返ると、たくさんの精霊火に囲まれたノリがいた。彼の片手には砕けたイチゴの山がある。供物だろう。 

 ラフマンはがっくり肩を落として、安堵混じりに呟く。

「ノ、ノ、ノリ一等兵殿⋯⋯びっくりした」

「ごめんごめん」

 ラフマンはファディルのほうを見た。

「⋯⋯で、ファディル少尉殿は何をしているのです? どうして光っているのですか?」

「班長の放つ霊力の光さ」

 ガチガチ理詰め思考の塊が、霊力という非科学的なものを放つ矛盾がなんだか可笑しかった。

「今は精霊の力でラフマン二等兵に可視化させているけれど、普通の人には見えない。班長にも」

「ファディル少尉殿にも見えていない?」

「うん、精霊すらも見えてない。心を覆う分厚い鉄壁が波長の受信度を不可視化レベルにまで下げて、自分の放つ霊力の光も精霊も見えなくしている」

「ノリ一等兵殿にはいつも見えているのですか?」

「神眼を使う時だけ、ね」

「神眼──」

 星を見上げるファディルをラフマンは見つめる。赤い目はずっと、宙から逸れることはない。

「班長は、星を見ただけで現在地がわかるのは、知ってる?」

「はい。噂に聞いております。みんなは『星読み』って呼んでますよね」

「それも神眼によるものだ。僕も難しいことはよくわからないけれど、星の位置、軌道、速度、誤差と地上を脳内で合体させて現在地を把握しているみたい」

「何ですか、それ」

「以前、星読みの詳細を班長に聞いたら難解な数学、天文学、物理学の話をだらだら聞かされて頭おかしくなりそうになったよ」

 つまり、常人には頭がおかしくなりそうなことをあいつは平然とやっているということだ。

 ウタリがファディルのそばに駆け寄り、隣に並んで一緒に星空を見上げた。ファディルはウタリに一瞥もしない。

 精霊火の飛び交う、青と闇の混じる異世界。そこに銀髪赤目の二人が並ぶと、幻想画の一枚絵にしか見えなかった。

 ずっとずっと疑問に思っていた、しかし誰に聞けばいいのかわからなかったことをラフマンはようやく口にした。

「どうして二人は、銀髪赤目なのでしょうか」

 ノリは深く息を吸ってから、なんだか覚悟を決めたように咳払いをして、答えた。

「神に選ばれし者だからさ」

 ラフマンは息を呑む。

「ということは⋯⋯ファディル少尉殿も?」

「うん」

 ラフマンは眉をひそめてファディルを見る。頭がトチ狂ったあいつが、神に選ばれし者? 納得いかず、ラフマンは冷笑混じりに訊いた。

「ちびっ子を解体しろと命じたあいつが選ばれし者ですって?」

「前にも言ったよね、神はとんでもないことを平気でするって。つまり、とんでもない奴を平気で選んだってことよ」

 ノリは可笑しそうにくすくす笑う。馬鹿にされたようで自然と目が鋭く細ばる。

「その選んだ神が、ね」

 ノリは二人のほうを見た。

「──セルク島の護り神、ヴィシュヌさ」

 急に身体が岩のごとく重く感じられ、両足から力が抜け落ち、ラフマンはその場に膝をつく。

「班長は、ウタリちゃんと同じくヴィシュヌに選ばれし者。だから銀髪赤目なんだ」

 脳が全く働かなくなり、ノリの声が 念仏のようにしか聞こえなくなる。

 ノリがファディルを「ヴィシュヌに選ばれし者」と言ったことで、己の崇める神が外道を選んだという現実を否応なしに突きつけられてしまった。

 ラフマンは足元に広がる自分の黒い影を見下ろしながら、惨めな思いでヴィシュヌに懇願する。

(嘘だろヴィシュヌ様。嘘だと言ってくれ)

 二度も裏切られたような気分だった。ヴィシュヌがウタリを生贄に捧げたと聞いたあの時以上に深い失望感が、黒い霧のように身体に満ちていくのを感じた。

 ラフマンは胸ポケットからヴィシュヌの像を取り出し、手のひらにのせる。神像が悪魔像のように見えて衝動的に投げ捨てたくなったが、ヴィシュヌのお怒りを買う、と心の中で命綱がぴんと伸びてラフマンは思い留まった。

 ノリはこちらの鬱屈とした思いなど意に介さないといったように、続けた。

「ヴィシュヌはセルク島が出来てから数億年も棲み続け、世界の理と生命の全てを維持、管理し、森羅万象を観測してきた。班長の神眼は、ヴィシュヌの観測能力を分け与えられたものだ」

 観測。その言葉だけは唯一、脳が拾い上げることができた。

 ラフマンは顔を上げ、ファディルを見た。

(森羅万象を、観測──)

 星を見ただけで現在地がわかるのも、ヴィシュヌの与えし『観測の力』なのだろう。

「ウタリちゃんと班長、ヴィシュヌに選ばれし者たちは──『神の寵児』と呼ばれる」

 ラフマンは立ち上がり、ノリの方を見る。

「神の、寵児?」

「僕の姉さんが昔ね、神憑りになったんだ」

 神憑り。文字通り、神に憑かれた状態のことだ。

「まだ僕が十二歳の時だった。姉さんの誕生日会で巫女一族の親族、祓い屋、呪術師がたくさん僕の家に集まってた。突然姉さんが痙攣したように震え出して、白目を剥いて、身体をぐらぐらさせた。集まったみんなは知識や霊能力があるから、姉さんが神憑りになったと察して静かに憑き者の声を聞こうとした」

 ノリは自分の手のひらを見つめた。

「僕の一族は、ヴィシュヌ眷属の精霊──つまりヴィシュヌに従属する高位精霊の霊力を女子を通じて引き継ぐ、セルク島の巫女族の中でも特別な血筋でね。ヴィシュヌ眷属の霊力を与えられた『特例』の僕には、姉さんに憑いている者が見えていた」

「何が憑いていたのです?」

 ノリは一呼吸置いてから、答える。

「ヴィシュヌの、本体が」

「⋯⋯! ヴィシュヌ様ご自身が、お姉様の中に」

「そう。みんなは、ヴィシュヌ眷属の精霊とは思えない、爆発的で猛烈な霊力に圧倒されて、固まっていた。僕も怖くて、動けなかった。そしてヴィシュヌは、姉さんの口を借りて、語った」

 島に危機が訪れし時、三人の『神の寵児』現る。

 その者たち、白銀の髪と赤き瞳の姿なり。

 一人は、神の眼を持つ英雄。

 二人は、櫓の守り人。 

 三人は、生贄の聖女。

 三人集いし時、神の観測は行われる。

 ラフマンは混乱する頭で、預言の内容を整理する。

 神の眼を持つ英雄──間違いなく、ファディルのことだろう。

 生贄の聖女──これは、ウタリ。

 櫓の守り人は、誰だろうか。

「櫓の守り人は、誰です?」

「それが⋯⋯未だに出会えていないんだよね。僕、休暇中にセルク島や他の島に行って『櫓の守り人』さんを探したんだけど、全く見つからなくて。まさか外国にいるのかな? って思って途方に暮れたよ」

 島の危機が訪れたというのに、未だ『櫓の守り人』だけは未発見。

 そしてもう一つの疑問は──

「神の観測、とは何でしょう」

 ファディルの観測は軍務であり、神の観測というよくわからない霊的なものとは別物と思われる。

「僕も、そこはよくわからない。ヴィシュヌは森羅万象を観測する神だ。森羅万象を観測できるのに、島に危機が訪れて神の寵児が三人揃わないとできない観測って、何だろうって思っちゃう」

「そうだよな」

 ラフマンはノリから顔を背け、ファディルとウタリに顔を向けた。

 ようやく近づけたと思ったのに、逆に二人が遥か遠い天上界にすまう天使のような存在に思えて、近寄れなくなってしまった。

「ねー! ねー! ファディル! 何見てるの? あたしにも教えて!」

 ウタリがファディルの袖を引っ張る。業務妨害させてはならない。ラフマンは二人に近づき、ウタリを軽く叱る。

「こら、ウタリ。ファディルはお仕事中だ。邪魔するな」

 ウタリはいじけたように口を尖らせる。

「えー、知りたいもん!」

 ファディルがラフマンのほうを振り返った。見る者を心酔させるような美しい無表情を向けられ、ラフマンは息を呑み半ば混乱しながら謝った。

「あ、あの、ファディル少尉殿、し、失礼しましたあの、その⋯⋯」

 言葉が出ない。

 ファディルはうっとりするような切れ長の目でラフマンを見据えて──

「何ですか、ラフマン二等兵」

「いや⋯⋯」

「私に意見具申がおありなら、感情論抜き及び理路整然とした内容でお願いします」

 いきなり、嫌味を言った。

 不意を突かれ、意識が現実に引き戻される。

「唯一の医療物資に対し、感情的に銃剣を突き刺すような愚行をしたあなたが、論理的な話ができるとは思えませんが」

 冷笑するような言い方に混乱が和らいでいく。だんだんと目の前の銀髪赤目が超存在から俗物、いやそれ以下の鬼畜に見えてきて、胸糞悪さと安堵が混じって腹に満ちる。

(⋯⋯黙れ、【外道メガネ】が)

 上官を罵倒してはさすがにまずい、と脳が咄嗟に罵声を引っ込める。

 ラフマンの中で、ファディルはクソメガネから外道メガネに格上げされた。

(ヴィシュヌ様、選考基準間違えたんじゃねぇの? 俺の思う英雄ってのは、もっと⋯⋯泥にまみれて多くの兵士を引っ張っていく熱血漢みたいな奴なんだが)

 英雄とはもっと勇ましく、果敢で、情熱に溢れる、炎のような人物の印象だ。

 地味で、陰湿で、嫌味ったらしい上に想像を絶する下衆外道の眼鏡の野郎は、英雄とは真逆の存在である。

(でも⋯⋯)

 あいつはカラリヤ湿原でアリフ隊を逆転勝利に導き、みんなから「神眼のファディル!」と英雄のように讃えられていたではないか。

(たしかに外道メガネは結果は出してる。でも、本当にそれが英雄か? いや、英雄ってのはどんな奴でも、みんなが讃えちまえば、もう英雄なんだろうか?)

 悶々としていると、ノリがファディルをなだめるように間に入った。

「まぁまぁ、班長」

 ファディルは眼鏡の位置を直して、再び星空を見上げる。

「あなたがたがいると業務に集中できません。お帰りください」

「班長、帰り大変だよ。森の中、真っ暗だし」

 タメ口のローカルルールの話は把握済みだ。もう違和感はない。

「僕は残るよ?」

 ファディルには精霊が見えない。そして科学主義と現実主義の塊であるファディルに精霊火をいきなり見せたら、発狂するだろうからノリは可視化などさせない。ノリと一緒に帰らないと、ファディルは確実に迷子だ。

「あなたがたの生体反応粒子をたどれば戻れます」

 忘れていた。こいつには常人には見えないものを捉える神眼があった。

「あ、そうか。じゃあ、先行くね。行こう、ラフマン二等兵、ウタリちゃん」
 
 ラフマンはウタリと手を繋ぐ。ウタリが嬉しそうに笑うと、ラフマンの顔も自然とほころんだ。

 ノリと精霊火の跡をついて行きながら、ラフマンたちは夜の森へ入っていった。

 ◆ ◆ ◆

(⋯⋯行きましたね)

 三人が森の中へ消えたのを確認した後、ファディルは片手に抱えていた二冊の観測業務日誌のうち一つを開いた。

 最初のページは、いつもの観測業務日誌。作戦内容、星読みの記録などが罫線に沿ってびっしりと書かれている。

 一陣の風が吹いて、ぱらぱらとページをめくる。

 開かれたページには、罫線からはみ出て殴り書きされた文章の羅列。

 全て観測業務とは何ら関係ない、生理学、細胞学関連の内容だった。

『被験体零号︰医薬品/実験仮説』

 その見出しをはじめとして、ある実験仮説がページに隙間なくびっしり書かれている。

 医薬品──島兵たちがウタリと呼ぶ個体を被験体とした実験の予測、指針であった。

 思いつくまま、夢中になって書き殴った雑文をファディルは読み返す。

 文中に『献血機関』という造語があった。

『医薬品は献血機関として何百何千もの兵力を回復させ、医療逼迫を回避可能とする。サイレンス投入対象となる瀕死の負傷兵の組織を切除し、医薬品の体内に埋め込み、大量採血する──』

 ファディルは次のページをめくった。

 現れたのは、医薬品の全身絵図。写真と見違えるほどの緻密な絵だった。

 描かれた医薬品は開腹され、鉗子を付けられている。
 
 患部の穴から見えるのは、内臓の数々。各内臓の絵に引出線を引き、『要摘出不要臓器』と書いている。

 要摘出不要臓器──盲腸、脾臓、膵臓、子宮⋯⋯(なお不要臓器は食化可能部位検証のための試食材料として利用)

 開腹された腹の中に、死ぬ予定の大勢の負傷兵の人肉を埋め込み、助けられる命を救う。

 ふと、ファディルは眉をひそめる。

(⋯⋯助けられる命を救う?)

 違和感が胸を過る。だがそれの正体は蓋をされたように読み取れず、脳内の奥底へ消えていく。

 代わりに──

(調和)+(綻び)+(修復)=『助けられる命を救う』=(生贄)←(祈り)

 という式が脳内に浮かび上がる。生贄←祈りという見たことのない変数が入力されていた。

「私が助けたい命は、ノリです。ノリと業務効率向上のために献血機関を作るのですよ?」

 献血機関構想を書いている時も、ファディルの脳内には『調和の数式』があった。

 ファディルは返事が返ってこないのをわかっていながらも、数式に訊く。

(これでよいのですか? これで業務遂行並びにノリの死亡確率は大幅に減らせますか?──調和の数式よ)

 調和の数式はアリフ隊長を自決未遂に留め、撃退作戦を成功へ導いてくれた。

 ファディルはこの数式を信じれば何もかも上手くいくと、すっかり信じ切っていた。

 ファディルはもう一つの日誌を開いて、観測業務日誌と見比べる。書いている観測業務の内容や文章は、誤字脱字、筆圧も一句一字正確に再現してある。この二冊目は、通信隊に観測業務報告を打電する用の複製だ。

 実験仮定の書かれたほうの日誌は勿論提出しない。表紙の『観測業務日誌』という題名を利用し、第三者には閲覧できないようにしている。

 ノリにこれが見つかったら、業務妨害行為と咎められるところであった。

 ファディルは星空を見上げる。 

 明日にはカイラス山岳遊撃区にたどり着く。

 遊撃区壕の中ならば見つかりにくく、医薬品の実験を試すには最適だ。

 心臓が高鳴り、背筋に疼くような刺激が走り、身体が浮遊するような感覚を覚える。

 『興奮』『高揚』『快感指数』を表す身体浮遊式が、かつてないほどの勢いで脳内を埋め尽くしていく。

 ついに、医薬品で実験ができる。

 自分は未知の生命領域に、踏み込めるのだ。

「楽しみにしていますよ、医薬品。──しかし」

 献血機関稼動には、人肉が必要不可欠だ。燃料がなければ機械は動かない。

 イルハム兵長の協力が必要だというのに、彼は非協力的だった。

(あなたが人肉を調達してくだされば、全てがうまくいくというのに⋯⋯)

 背後から足音が迫ってきた。振り返ると、闇に紛れるようにして立つ漆黒の影──イルハム兵長がいた。

「おや、イルハム兵長。どうしましたか?」

 イルハムはファディルのそばにより、血に濡れた口を開いた。

「あの子で実験する気か、狂人」

 狂人という言葉に『身体加熱式』が生成されるのを感知しながら、ファディルは呆れまじりに答える。

「あの子? ああ、医薬品ですか?」

「医薬品呼ばわりか。なるほど、だから平気で実験材料にしようと思えるんだな」

「ところで、何の用です?」

 イルハムは俯き、呻くように言った。

「何でもないさ。ただあいつらが、俺をここへ連れてきたんだ」

 また、謎の「あいつら」が出てきた。人肉を持ってこい、とイルハムに要求した奴らが。

 イルハムの真っ赤な唇の隙間から、血で濡れた牙が見えた。人間のものとは思えないほど尖った鋭い犬歯を見て、ファディルの腹が冷え、身体冷却式が生成される。

(何です、あの牙は。前はあんなもの生えていなかった⋯⋯)

 身体冷却式で脳が埋め尽くされそうになり、ファディルは必死に除去を命じる。数式生成強制停止。ぴたりと冷却式が止まったが、腹に広がる冷たさは消えない。

 ふぅ、と一息ついてから、ファディルはイルハムの歯に付いた血を見る。超拡大視が開始され、血の中に含まれる肉物の細胞、染色体へ焦点を絞る。二十三対、四十六本。人肉だ。

(あの時も歯に付いていた血⋯⋯なるほど、人肉を食らっていたのですね)

 ついでに食らっていた人肉の残りを土産に持ってきた、というわけか。

 イルハムは牙を剥き出しにし、喉を押さえて野獣のような鳴き声を上げた。

「グガアアアアアァァァッ」

 人間の喉の奥から猛獣が咆哮を放っているようだった。口から発せられる声の波長パターンが計測される。人間が発声できる音域を遥かに下回る重低音だった。

 吐息からは人肉と酷似した物質、胃酸物質が、全身からは興奮、神経高揚、空腹を示す生体反応粒子が大量に発せられる。

 極度の空腹、飢えの状態。

 イルハムは自分の腕に牙を立て、苦しげに呟く。

「食わねぇと、まずい⋯⋯人肉を⋯⋯食わねぇと⋯⋯」

 イルハムの生体反応と発言、それらを総合するに──

「人肉に飢えているのですか?」

 イルハムは目だけを上げて、ファディルを睨む。

「なぜ、わかっ、た⋯⋯」

「あなたの吐息に含まれる人肉物質、胃酸値、全身から発せられる極度の空腹と飢え、前頭葉から出る依存性を示す生体反応粒子、『人肉を食べなければまずい』という発言から、人肉に飢えていると分析しただけですよ」

「ははっ⋯⋯神眼って、やつ⋯⋯か⋯⋯全部、おっ、見⋯⋯通し⋯⋯か」

 ファディルは飯盒に入っていた人肉の欠片を差し出す。

「これをお食べください。腐りかけていますが」

 イルハムは目を丸くする。

「これは⋯⋯?」

「あなたが以前持ってきた人肉です」

「あ、ありがてぇ」

 イルハムは人肉の欠片を受け取り、丸ごと食べる。咀嚼して呑み込むと、満足げな溜め息をついた。乱れていた生体反応粒子が落ち着いていき、安心感、満足感を示す粒子が放出される。

「お前のおかげで助かったよ。衝動に負けてお前を食うところだった。危なかった」

 イルハムは深く息を吐いた。息の空気粒子の動きは『安堵』を示していた。人肉を食べたがっているのになぜ「お前を食べてなくてよかった」と安堵したのか、

「よかったです」

 ファディルの脳内に心理分析演算式が生成される。カラリヤ湿原で敵を処刑した時、森の中で包囲された時にも生成されていた、他人の表情、声の波長、言語行動などのパターン、生成反応粒子を組み合わせた心理分析専用の式だ。

 この心理分析演算式をうまいこと利用して、ファディルは小さい頃からよく屋敷の使用人たちを言葉でからかい、遊んでいた。彼らを言葉一つで操り人形にしてきた癖は、大人になった今も変わらない。

 心理分析演算式が結論を出す。

 ──イルハムを今ここで服従させろ、と。

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