4-11 障壁

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 負け犬さながらラフマンは横になり、壁に描かれたウタリの絵をじっと見つめていた。

 不思議なことに血液は全く固まらず、生々しい赤色を保っていた。まるで今塗られたような血の絵を、心ここにあらずといった気持ちで眺める。

 ウタリは、泣いていないだろうか。

 ファディルに道具にされたと気づいて、人間不信になり、心を閉ざしていないだろうか。

 いや、心配しても無駄だし、用無しの自分にはそうする資格すらないかもしれない。

(ウタリ⋯⋯)

 涙すら出ないほど、心はカサカサに乾ききっている。

(俺は、お前に何もしてやれないよ)

 ウタリが安心できる居場所すら、作ってやれなかった。

 ラフマンは俯いて、血で顔を洗うように顔面を寝袋に埋める。花畑を風に乗り漂う、花の甘い匂いがした。ウタリの花のような笑顔が、脳裏に浮かぶ。

「ウタリ⋯⋯」

 彼女が人間への失望に満ちた顔で帰ってきても、自分は『絵を描こう』と無神経に言うことしかできない。きっと──

「御愁傷様のところ、失礼する」

 老人のようなしわがれた声が天井から聞こえた。『カミ』の声のように響かず、まるで天井から誰かが首を突き出して話しかけているかのような、近距離からの声だった。

 目だけをゆっくり上へ向けていく。ウタリの絵、ぼこぼこに突き出た壁と天井の接点、さらにその上に──

 人間の腕が、生えていた。

「─────っ!!」

 喉奥から声にならない悲鳴が飛び出し、ラフマンは口をぽっかり大きく上げる。

「お、すまん。びっくりさせちまった」

 声を上げることすらできないラフマンは、口をぱくぱくさせながらその腕を凝視する。天井から突き出た手には、大きな麻袋が吊るされていた。

「こっちの世界に干渉する魔力を消耗しちまった。許してくれ」

「ま、りょく⋯⋯?」

「そう、俺、今元気ねぇの。あのクソメガネにこき使われてよ」

「クソメガネ⋯⋯?」

 外道──いや、ヴィシュヌの化身に、こき使われている?

 ファディルに使役されている、謎の『手』。間違いなく人間のものではない。だが、ファディルは自身がヴィシュヌだと気づいておらず、非科学的なことを一切信じない奴だ。現実主義者にこき使われている異形とは、一体何のことか。 

 霊能力だの精霊だの神だのと立て続けに出会い、多少理解が深まったラフマンは、混乱しつつも冷静に誰何する。

「あなたは、何者です」

「イルハムだ」 

「イルハム兵長⋯⋯」

 森の中で動物の肉を地面に落とし、突如消え去ったあのイルハム兵長。

 やはり彼も異形だったのか、とラフマンは納得する。

(アリフ隊にバケモノが二体も潜んでいたとはな)

 なんとも不思議で滑稽なことだ。

 イルハムは手に持つ麻袋を手放した。ドスッという音の中に、カランと金属音がひっそり混じっていた。

「腹減っているだろう?」

 配給される缶詰めは、昼夜に二個だけ。極度の空腹に慣れているとはいえ、栄養失調は免れない。ラフマンは姿の見えないイルハムに頭を下げる。

「ご配慮、感謝致します。兵長殿」

「腹が減っちゃあ戦はできねぇからな」

「はは⋯⋯っ」

 異形の存在と平然と話している自分が、なんだか可笑しかった。ノリに精霊を見せられ、ヴィシュヌやカイラス岳の神と会話し、すっかり異形と触れ合うことに慣れた。

 イルハムの手が天井に引っ込んでいく。物理法則を無視した消え方に別段驚くことなく、ラフマンは最後に尋ねる。

「あなたは精霊ですか? 神ですか?」

「──魔物だ」

 ぞくり、と背筋が凍てつく。魔女など、魔に属する者を忌み嫌い恐れる本能が反応していた。

 イルハムの手が完全に消えると、ラフマンは麻袋に注目した。

 触れるな、魔物の持ってきたものだぞ──と本能が制止してくるが、ラフマンはそれを振り切り、手を伸ばす。

 イルハムは魔物だが、ウタリのために肉を持ってきてくれたではないか。彼のおかげでウタリは元通りになったではないか、とラフマンは本能に反論する。

 麻袋を開け、ラフマンは微笑む。

 そこには、数え切れないほどたくさんの缶詰めが入っていた。全て外国語で書かれている。敵地から持ってきたものなのだろう。

 幼女の肉を平然と食う神もいれば、イルハムのように誰かを気遣える優しい魔物だっているのだ。

 魔女だから魔物だからと、偏見で誰かを非難するのは、もうやめよう。

 麻袋の隅っこに小袋があった。触れると、中に柔らかい弾力性の何かが入っていた。小袋を取り出して開けてみると、薄汚れた可愛らしいテディベア。水色の身体に、首には青いリボン。背中に外国語の名前が刺繍されていた。読めないが、持ち主の敵兵が持っていたものだろう。

(神だとか、魔物だとか、敵だとか)

 自分たち人間は、いちいち誰かをラベリングして自分の心を守りながら、誰かと接するしかないんだ。ラベリングの壁を乗り越えてしまったら、相手のことをいちいち理解しながら面倒くさく生きなければならない。そんな風に生きていたら、いつか擦り減って疲れてしまう。

 ラベリングは、必要不可欠だ。だがたまにこうして、外してみることも必要不可欠。

 ラフマンはテディベアをウタリの絵の下に置いた。テディベアが花を背景に座って微笑んでいるようだった。

(ありがとう、優しい魔物のイルハム兵長殿。ウタリ、きっと喜びますよ))

 ラベリングを、外そう。これから出会う様々な異形や、理解できないものに対して──そう思った時、視界の端に数式が映る。

 ラフマンはウタリの絵の隣に描かれたファディルの数式を見た。汚物を呑み込んだような嫌悪感が胸に満ち、ラフマンは目を背ける。ファディルがヴィシュヌだった、人間の倫理は通用しないと明かされても、未だに頭の理解は追いつかず、外道と認識してしまう。

 ラベリングをやめようと思い立ったのに、思わぬ壁にぶつかってしまった。ヴィシュヌの分霊とはいえ、今まで散々鬼畜の行為を見せつけられて今更彼に対する認識を変えることなどできはしない。

 ヴィシュヌとファディルは同じ霊魂だが、人格は全くの別物だ。前者は世界の観測者、後者はヴィシュヌから生まれた馬鹿息子の邪神である。

 ふと、ヴィシュヌがラフマンに告げた言葉を思い出す。

 ──私は、あなたを神の寵児たちの従者に選びました。ウタリとファディル、あの二人を導く役目があなたにはあります。

 ──従者としての務めを果たしなさい、ラフマン。

 ラフマンは首を横に振り、「無理です」と抗議する。
 
 無理難題である。人間の常識、論理、倫理などあらゆるものが通用しないあれを、どう導けばよいというのか。

 ラフマンは立ち上がって、地面に溜まった血を蹴り飛ばし、ファディルの描いた数式を塗り潰す。血しぶきが数式に降りかかり、数字も記号も瞬時に消え去る。忌まわしい邪神の描いた文字を塗り潰してやった、ざまぁみろ。真っ赤に染まった岩壁を睨みながら、ラフマンは尚も不満をヴィシュヌにぶつけた。

「⋯⋯無茶言わないでくださいよ、ヴィシュヌ様」

 胸に溜まるヘドロのような気持ち悪さが、怒りの熱で焼かれていく。

 しかも自分は、ファディルに言い負かされて首輪を繋がれた忠犬の身である。飼い主に忠犬の言うことを聞かせるなどそんなふざけたこと、できるものか。やはりヴィシュヌもファディルと同じく、人間に対する想像力がなさすぎるのだ。

「俺がファディルを導く従者? 違う。俺はファディルに導かれる忠犬だよ、畜生」

 その上「導く従者」というのも矛盾している。神の発想なので理解不能なのは仕方ないか。

「あぁもう! 畜生っ! わけわかんねぇ!」

 ラフマンは血溜まりをもう一蹴りし、邪神の数式を更に赤く塗り潰していく。

「⋯⋯ずいぶん荒れてるな」

 天井からイルハムの声がして、ラフマンは彼の方を見た。赤黒い異形の腕がにょっきり天井から生えている。手には一本の白いキノコが握られていた。

「何ですか、そのキノコ?」

「ファディルに効く劇薬だ」

「⋯⋯は?」

「俺はあいつの唯一の弱点を知っている。それが、このキノコだ」

「キノコが、弱点?」

「俺、見たんだ。ファディルがノリにキノコを見せられて、怯えて逃げていくのを」

 ラフマンは唖然として立ち尽くす。あの無感情にしか見えないファディルが、キノコに怯える?

「嘘、ですよね?」

「嘘じゃない。今度ここにファディルが来た時、これで試してみろ。あと、これは食えるキノコだ。ノリの精霊火で焼いてもらえ。うまいぞ」

 そう言ってイルハムは白いキノコをラフマンのほうに投げ捨て、消えていった。

 ラフマンは受け取ったキノコを見下ろし、眉をひそめる。手のひら大の大きなキノコだった。顔に近づけると、ほのかにキノコのいい香りがする。

「これが、効くのか? 本当に?」

 ただのキノコがあいつの恐怖対象? 冗談としか思えない。

 しかし、もし本当に効くのならば、ファディルの忠犬から抜け出せるかもしれない。そんな予感がした。

(本当に⋯⋯イルハム兵長のいうことが本当なら)

 キノコによる撹乱作戦で奴を精神錯乱させ、脅し、主導権を奪えるなら。

「⋯⋯何考えてんだ、俺」

 変な妄想を浮かべる自分を笑う。自分はファディルのように人を操る術など知らないのに。

 だが、迷っている場合ではない。

 ヴィシュヌにファディルを導く従者になれと言われたのだ。もしヴィシュヌの意志に背いたら自分は木っ端微塵にされて消されるかもしれないという不安が胸を過ぎり、全身に寒気が走った。何としてでも主導権を奪い返し、こちらからファディルに首輪を付けてやらなければ。

 一か八か、ファディルがキノコで本当に怯えるのか試してみなければならない。

 奴をキノコの恐怖に落とし入れるのだ。

 期待と緊張に全身の肌がざわついた。

 ラフマンはキノコの太い柄を握りしめ、頷く。

「邪神、待ってろよ。今度てめぇがここに来たら、恐怖のキノコパーティーを開催してやる」

 
 ◆ ◆ ◆

 第三衛生壕の軍医室では、ファディル、ヴァレンス、ガマン軍医の三名が集まっていた。壁際には使い古された錆だらけの本棚が並び、豆電球は時々点滅し、中央のデスクは天井から滴る水滴でびしゃびしゃだ。雨水桶を置いても防ぎきれず、卓上の書類はぐっしょり濡れている。

 ファディルは観測業務日誌を開き、記録した再生速度をガマン軍医に報告していた。

「壊死組織では再生速度平均十分、十五分間で血液増量約二リットル。生体組織を用いた場合は再生速度平均三秒、血液増量約二十リットル。生体組織のほうが最速再生、十五分間で二十リッターバケツの血液を採取可能です」

 ガマン軍医は皺だらけの口元に微笑みを浮かべながら、呟く。

「生体組織のほうが早いか」

「壊死組織では、死細胞の修復をしてから献血体の体内に取り込むため、余計な時間がかかります。そして血液増量も圧倒的に少なく不利です」

 ファディルは観測業務日誌の次のページをめくる。負傷兵の詳細な損傷絵図と組織再生速度、損傷部が再生する際の消費血液量が書かれていた。

「消費血液量、四肢接合の場合は約十デシリットル。四肢完全修復の場合、十五リットルも消費します。大量の負傷兵が衛生壕へ運ばれてきた時、壊死組織の投与だけでは間に合いません」

 ガマン軍医が尋ねる。

「生体組織投与のみで我慢しろと?」 

「そういうことです。効率良く血液を増量、及び節約するために、損傷ごとに血液投与の規定量を定める必要があります」

 ファディルは次のページをめくり、損傷ごとの血液投与規定量表をガマン軍医に見せた。

「これら規定量を上回る負傷兵は、生体組織投与候補とします」

 ガマン軍医の口元から笑みが消える。答えを察しつつ、それでもあえて問うようにガマン軍医は慎重な声色で尋ねる。

「生体組織投与候補⋯⋯? それはどういうことだね、少尉」

「献血機関の燃料、とするのです。規定量を上回り、他の負傷兵を治せなくなるというのならば、燃料として消費したほうが効率がよろしいかと。どうせ死ぬなら他の負傷兵を治療する燃料として役に立ってもらえれば光栄です」

 ガマン軍医は絶句したように口をぽかんと開けた。生体反応粒子は『恐怖』を示している。なぜ恐怖しているのかは不明。

 対してヴァレンスは、期待の眼差しでファディルを見つめていた。

 ──ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 水滴の滴る音だけが聞こえるほどの張り詰めた静寂が、訪れる。

 しばらくして、ガマン軍医が口を開いた。

「──却下する」

 予想外の返答に、ファディルは脳内にノイズが発生するのを感知した。

 ガマン軍医はファディルの横に近寄り、顔をぐいっと近寄らせて言った。

「ファディル少尉。君のやろうとしていることは制度外の治療行為であり、殺人罪に該当する。負傷兵を治療行為外の理由で殺害し、生体組織を切除する。これは戦争犯罪になるのだよ」
  
 予想外の反論をくらい、ファディルは目を丸める。

「殺人、ですって?」

「わからないか? では例を出そう。戦場でサイレンスの在庫切れを理由に、負傷兵三名を自力で歩けないからと首を絞め殺害。その場の全関係者が軍法会議にかけられ、懲役二十年。殺人罪だ。これは公式記録に残っている」

「戦場においてサイレンスがないならば絞首殺人。大変効率的です」

「ちぃぃぃっがーうっ!」

 ガマン軍医は素っ頓狂な声を上げた。

「別のケースでは、『血液だけを提供させて死なせた』。現場は輸血のためと主張した。負傷兵はショック死。関与者は治療目的の不在と認定され、未必の故意による殺人で懲役二十五年。戦争だからやってもよい? 違う。制度の外に出た瞬間、それはただの戦争犯罪なのだよ、少尉」

 ガマン軍医はファディルの唇を指先でちょんちょん突き、いきなり押し広げ、口の中を覗き込んだ。

「乳歯は抜けても、永久歯は簡単には抜けん。それと一緒で、現場のマニュアルは変えられるが、制度は一度作られれば簡単に変えられんのだ」

 制度。またも出た予想外の単語に、次の言葉を弾き出す演算式の形が崩れそうになる。

 何も言い返せないファディルに、ガマン軍医はなおも畳み掛ける。

「私は、感情で止めているわけではない。制度と命令、それが我々の地獄を正当化する唯一の盾だ。それを捨てたら、私たちはただの殺人者になる。君も、私もな」

 ガマン軍医はファディルの耳元に唇を寄せ、熱い息を吹きかける。

「少尉、君は気づいていない。君の言う効率性は、制度と対立した瞬間に大義名分を失う。『多くの兵を救うために』⋯⋯その美しい名目は、虐殺の正当化と化す。善か悪かの問題じゃない。軍が守るのは制度そのものだ。それを壊した君は、英雄ではなく屠殺者として歴史に名を刻まれるだろう」

 ガマン軍医の言葉が、風のようにすっと頭に入ってくる。制度に背けば、何もかも台無しになる。思わぬ壁を突きつけられ、脳内の数式が跡形もなく消え去り、脳内に真っ暗な闇が満ちる。

 耳元から顔を離し、ガマン軍医は後ろを振り向く。

「⋯⋯というわけだ、少尉。たとえ人道を切り捨てたとしても、制度は切り捨てられないのだよ」

 ガマン軍医は肩越しからファディルを見た。

「投与は壊死組織のみにしたまえ。我慢だ、我慢」

 ファディルはなんとか口を動かし、反論しようとする。

「しかし、軍医殿⋯⋯」

「しかし、少尉。だめなものはだめだ。お互い陸軍刑務所にぶち込まれたくはないだろう?」

 ファディルはもう何も言えなかった。ガマン軍医はニィッと歯を剥き出しにしながら、一言──。

「戦争だからって、何をしてもいいわけじゃないんだ。わかっておくれ」

 ファディルは第三衛生壕を抜け出し、観測壕へと続く通路を進んでいた。天井に吊り下げられた豆電球の群れが、水の溜まった通路に光の輪を広げている。 

 ジジッ⋯⋯ジジッ⋯⋯と静寂の中に豆電球の点滅音が響く度、壁に大きく映るファディルの影法師が消えたり、現れたりした。

 ファディルの脳内の数式も同じように、点滅し、数字と記号がバラバラになり、数式として全く成り立たなくなっていた。調和の数式が、ガマン軍医の述べた制度に敗北し、混乱しているかのようであった。

「調和の数式よ、あなたは制度の前に無力でしたね。壊死組織のみの投与を強要。これでは献血機関として成り立ちません。あなたの企てた計画は水の泡です。散々私を操っておいて、ざまぁないですね」

 全身が地面をすり抜けて地下一万メートルまで急降下していくような謎の落下感覚に襲われている。調和の数式に無意識レベルまで支配されている精神が、無限に生成される身体沈着式の数式に塗り潰され、身体感覚を狂わせているらしい。

(──身体沈着式、限界値寸前)

 足裏に伝わる地面の感触まで歪み出し、揺らぐ空気の層の上を歩いているような歩行感覚不全が生じる。

「ですが数式よ、私はあなたに期待していた部分もあるのです。献血機関を作れば、ノリを助けられるかもしれないと」

 ファディルはふらつき、床の水溜りに倒れた。髪と軍服に生温くカビ臭い汚水が染み込んでいく。

 顔を上げて咳き込み、上半身をお越し、ファディルはその場に座り込む。天井からぽたぽたと、雨のように雫が降ってきては平たい制帽の上にぱらぱらと落ちる。

 ファディルは天井を呆然と見上げた。

 献血機関は、不完全に終わった。

 壊死組織の投与では生体組織の半分の血液しか絞り取れず、治療できる負傷兵の数は限られる。

 敵前上陸後、ノリが負傷した場合助けられなくなる可能性が大きい。

 観測壕は最初に陥落する。カイラス岳付近の軍路を戦車が通過してきた場合、遊撃区があると敵にバレれば、壕内侵入を測るため艦砲射撃が飛んでくるだろう。山林を消し飛ばし、丸裸にしてゲリラ戦を不能にし、敵を侵入させるはずだ。頂上付近の観測壕は衝撃緩和材を仕込んでいるとはいえ、さすがに艦砲射撃では崩壊するだろう。

「まことに残念な限りです」

 その時、脳内に数式が浮かんだ。

(調和)+(綻び)+(修復)=(ノリ)+(救済)=(自己欺瞞)

 (ノリ)+(救済)=(自己欺瞞)という式に、ファディルは肩を弾ませて息を呑む。

 自己欺瞞。つまり自分で自分を騙していたという意味だ。

「自己欺瞞⋯⋯数式よ、それはどういうことです?」

 垂れ落ちてくる雫を見つめながら、ファディルは呟く。

「私はノリの死亡回避率を上げたいと何度も願っていました。あなたがその願いを汲み、私を操り、献血機関が実現することを望んでいたです。その私の願いが、偽り?」

 嘘だ。ノリが死ねば観測班の業務は頓挫する。それを回避するために数式の導きに従い、献血機関を作ったはずだ。

 ふと信じたくないある疑惑が頭を過ぎり、ファディルは震え上がった。

「まさか、ノリを救いたいという気持ちも⋯⋯『演算』だったというのですか?」

 イルハムを従わせようと望んだ自分の意志が、まさか調和の数式による演算だったと知った時と同じ虚無感が胸に広がる。

「あなたが私に献血機関を作らせるために生み出した偽物の動機なのですか?」

 ファディルは自分の頭を両手で抱え、声を震わせながら調和の数式を問いただす。

「私が万が一あなたに反抗しないよう、従順であるようにと、わざと『ノリを助けるため』という大義名分を私の無意識に吹き込ませていたのですか? そして私を、自分の意思で『ノリを助けたい』と思わせるように操作していた。それならば、私は一体何をしてきたというのでしょう? 私の意思など初めから無で、ただ演算に従い無意識的に動いていただけ?」

 ノリの死亡回避率を上げたいと切望し献血機関の設計図を必死になって書いていたあの時の焦燥感も、調和の数式によるフェイク感情だったと言うのか。

「これでは⋯⋯」

 ハハッ、と謎の声が出た。音声パターン解析。──笑い声。

 七歳のあの日、泣きも笑いもしない木になろうと誓ってから長い事封印されてきた、笑い声だった。

 何年ぶりかに発声した自分の笑い声に驚きつつ、ファディルは調和の数式に冷笑混じりの苦言を垂れる。

「私は意志を持たぬ操り人形ではありませんか」

 ファディルは自分の手を見た。手の中が、空っぽの空洞になっているような錯覚を覚えた。これは人形の手だ。自分ではない誰かの意思で動く、傀儡の部品。

 ──ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 雫の反響音が、半径十メートル以内で三秒間に約百五十三回鳴った。

 静まり返った橙色の空間に響く音を、ファディルは無言で聞く。

『神の眼を持つ英雄、ファディルよ』

 天井から、老人の声が反響するように聞こえた。空気振動数はゼロのはずなのに、音がはっきりと目の前で響いた。

 意識は明晰。疲労指数、正常値。明らかに幻覚ではない。

 ならば、何だ。空白になった脳内に膨大な量の乱れた数字が嵐のように発生し、めちゃくちゃな記号と変数とつぎはぎに繋がっていく。

 非科学+異常現象✕処理落ち+(身体冷却式限界値)+(分析不能エラー発生)✕(神経冷却異常値)+非幻覚+物理法則非該当現象✕なんだこれは(わからない)+(理解不能)(不明)(不明)不明不明不明不明不明不明不明不明不明不明──(演算停止)

『我ら神の子、ファディルよ。おぬしの行いに、迷いを抱くな』

 聞こえるのは、明らかに人間の老人の発声及び発音解析パターンに該当するものだ。だが、物理法則を無視している。

 正体不明音声(処理落ち)+分析不能+演算不可。

『兵の血を注ぎ、命を繋ぐ。おぬしの手は、調和を保とうとしている』

 演算完全停止。起動不可能。ファディルはとうとう思考を紡ぐ演算ができなくなった。 

 空白になった脳内を撫で回すように、その声は続ける。

『人の声に惑わされるな。人の理は、おぬしの理ではない』

 主体性を持つ謎の意識体が近距離に存在、とファディルは解釈する。存在の分別はつかないが、間違いなく自我を持つ何かが自分に話しかけている。

 人でも動物でもない、姿なき非物理的な生物。脳の中で発生する自我構成クオリアだけを抜き取り、視認不可の集合体と化したような何か。

『ウタリは命の器、そなたは調和の器。二つを合わせよ。兵たちの命は繋がる』

 ファディルは硬直する唇を、押し開く。

「あなたは⋯⋯」

『神の眼を持つ英雄、ファディルよ。屍を積み上げよ。不死身の聖女の腸に屍の血を注げ、死肉を撒け。そこから兵の命は生えてくる。さすれば偽りの英雄像は消え去る』

「何者です⋯⋯」

 非物理的生命体は応えた。

『我は──山の神シヴァ』

「神──」

 非科学的存在の呼称。だが今は、なぜたかそれを否定できなかった。

 何せ声は「神」と分類しなければ定義不可能なほどの物理法則を逸脱しているのだから。

『お前たちが、カイラス岳と呼ぶこの山の護り神なり』

(カイラス岳の、シヴァ⋯⋯?)

 セルク島神話には、カイラス岳に棲まう破壊神シヴァが登場する。

(しかしあれは、神話⋯⋯創作のはず⋯⋯)

 シヴァと名乗る意識体『神』の高らかな笑い声が、天井の彼方へと去っていく。

 ファディルは呆然と天井を見上げながら、顔面に雫を浴びる。

 ──ぽたり、ぽたり、ぽたり。

 雫が目に入っても、瞬きすらできないほどの硬直がファディルの身体を縛り付けていた。

 そうして、三十五分十七秒六三が過ぎた時、背後から誰かの足音が近づいてきた。空白になった脳内に足音の周波数を示す数式が現れる。人間の足音だ。胸部安定式が現れ、全身の硬直が徐々に解けていく。

 水溜りに浸かりながら、ファディルは肩越しから接近してくる者を見た。

 両手に持つ平たい板にコップを二つのせた一人の島兵が、こちらへやってくる。

 顔面認識図分析──ノリ。

「班長〜」

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