4-3 どんなに嫌われても

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「何、して、るんだ⋯⋯お前ら⋯⋯」

 ラフマンの混乱など意に介していないかのように、ファディルはフォークとマルチツールナイフで器用に人肉を小さく切り分け、優雅な仕草で口に運ぶ。

 フォークを持つ指の形、音を全く立てない咀嚼の仕方、完全に洗練された『坊ちゃま』の食べ方で、奴は人肉を堪能していた。 

「内臓は鮮度が命です。これは⋯⋯少々硬いですね」

「あら、美味しくないんですか?」

「味は最高です」

「よかったです!」

 ウタリは嬉しそうにくすくす笑う。

 ファディルが血の入った銀カップを掲げると、ウタリもカップを持ち上げる。

「かんぱーい!」 

「乾杯」 

 キンと音を鳴らしてカップを重ね、二人は血を飲む。ウタリはプハァと息を吐いて、くすくす笑う。

「あんまぁー!」

「ああ、こんなに素晴らしいアフタヌーンティーは生まれてはじめてですよ」

 ラフマンの隣でノリも腰を抜かし、叫びにならない掠れた悲鳴を上げる。

「ひぃぃぃぃぃっ!⋯⋯はん、ちょっ⋯⋯な、な、な、何やって⋯⋯っ」

 ファディルは手を止めて、感情がこもっていないのに凛とした響きのある声で咎める。

「やかましいですよ、田舎者ども。食事中はお静かにしてください」

 坊ちゃまらしい嫌味だったが、もう腹が立つことも笑うこともできなかった。ファディルのようにありとあらゆる感情が抜け落ちて、自分まで空っぽの人形になっていく気がした。

「ラフマン」

 何も考えられなくなった空白の頭に、ウタリの無邪気な声が響く。

 目だけをウタリのほうへ向ける。ウタリはぞっとするほど冷たい無表情で、ラフマンを見ていた。

「ウタリが寝ている時に、血を抜いたの?」

 図星を突かれ、肩が跳ね上がってしまう。なぜそれを? ファディルが教えたのか?

「やっぱり、そうなんだね」

 呆れたようなウタリの声に、ラフマンは目を背ける。

 言い訳無用だった。ウタリに全て知られた今、弁解の余地はない。

 ウタリの無表情が、「裏切り者」とラフマンを罵っている気がした。

「見て、ラフマン」

 ラフマンは再び視線をウタリへ向けた。彼女の手に、真っ二つに折れたお絵描きペンが握られている。

「お絵描きペン、折れちゃった。ごめんね。でもね」

 ウタリはもう片方の手に握った一本の骨を見せた。骨の先は何かで削ったように尖っていて、血が着いている。

「ファディルがね、代わりにウタリの肋骨でお絵描きペンを作ってくれたの」

「ろ、肋骨⋯⋯?」

「あとね、見て見て。ファディルとね、お絵描きしたの」

 ウタリが背後の岩壁を指差す。そこに、血で描かれた花、顔、棒人間など下手な幼児画と、その隣に難解な数式の羅列が描かれていた。

 ラフマンの描いたウタリの下手な顔が、血の数式で上書きされていた。

 激しい目眩に襲われ、ラフマンの身体が傾く。限界まで保っていた意識の糸が、とうとう途切れた。

「ラフマン二等兵!⋯⋯ラフ、マン⋯⋯に⋯⋯」

 ノリの声が闇の彼方に遠ざかっていく。

「ラフ⋯⋯マン⋯⋯」

 誰かの呼びかけで意識が浮上する。

「ラフ⋯⋯マン⋯⋯ラフマン二等兵、ラフマン二等兵」

 ノリの声。

「ノリ⋯⋯一等兵殿⋯⋯」

 目を開くと、心配そうに顔を覗き込むノリがいた。

「大丈夫? 具合は?」

「なんともありません。⋯⋯あいつはっ」

 ラフマンは起き上がり、周囲を見渡す。隣にウタリ壕の入口があった。

 ノリの呆れかえったような声がした。

「勤務時間近いからって帰ったよ」

「ウタリは⋯⋯」

「さっき見てたけど、ケロッと元気に壁に絵を描いてた」

「ケロッと? カサカサになっていなかったのですか?」

「うん。幸い、カサカサにならない量だったみたいだね」

 ラフマンは寝袋に染み込んだ血を思い出す。水をかけられたようにぐっしょり赤く塗れた寝袋。どう見てもかなりの血液量だった。

(本当に、カサカサにならない量だったのか? あれ⋯⋯)

 入口の向こうから、微かにウタリの楽しげな笑い声が聞こえてくる。ノリの言う通り、上機嫌なようだ。

「あの野郎⋯⋯」

 ノリは溜め息混じりに呟く。

「班長に悪気は、ないんだろうけどね」

 ラフマンはノリのほうを振り返り、彼を睨む。

「あいつを庇う気ですか」

「そう聞こえるかも知れないね。ごめんね。でも本当だ。彼は常に『最適解』しか求めない」

 ラフマンはノリの肩を鷲掴みし、軽く揺さぶる。

「最適解!? ウタリを解剖したことの何がっ──」

 ノリは唇を噛み締めて俯く。ラフマンはノリの肩を離し、立ち上がった。

(結局お前もあの外道の肩持つのかよ)

 もうノリも信じられなくなってしまいそうだった。

 ラフマンは歩き出し、ウタリ壕の入口を通り過ぎる。

 ノリは、ラフマンの背中にぽつりと呟いた。

「それでも、班長の演算がなければ、きっと僕らはカラリヤ湿原や森の中で全滅してたんだ」

 ラフマンは振り返らなかった。その言葉の意味を、考えたくもなかった。

 通路に、ラフマンだけの足音が虚しく反響する。

 ラフマンは俯き──顔を上げ、前方の闇を睨んだ。

(こうなったら、俺にも策がある)

 最高機密保護官の自分には特別に、衛生隊長に意見具申する権限を与えられている。

(もう、ウタリを解剖させたりしない)

 目の奥から熱いものが込み上げてくるのを堪えながら、ラフマンはぎゅっと瞼を閉じる。

 ウタリの信頼を完全に損なった。

 しかしそれ以上に心を軋ませるのは、ウタリが外道の玩具にされることだった。

 ウタリにどんなに嫌われてもいい。

 だが、ウタリが傷ついてまた泣くのだけは耐えられない。

(待ってろウタリ、必ず外道に一泡食わせてやるからな)

 第三衛生壕は重傷者専門の壕で、アリフ隊のヴァレンス衛生隊長が管理している。四階へ続く階段を上がった時、魚の腐ったような激臭が鼻をつきてラフマンは顔をしかめた。嗅ぎなれた臭いだが、風のない壕内に満ちる激臭は外より濃厚で強烈だ。

 胃がぎゅっと縮んだ。かろうじて唾を飲み込み、吐き気を喉の奥に押し込めた。

 湿気を含んだ空気が鼻腔に張り付き、腐敗臭と汗と消毒液の刺激が混ざり合って、脳まで痺れそうだった。

 電灯の明かりは弱く、カビの浮いた壁がじっとりと濡れていた。吊り下げられた裸電球が、かすかに明滅している。歯を噛み締め、眉間に深く皺を刻みながら、足を進める。奥の方から、断続的に呻き声と器具のぶつかる音が聞こえてくる。負傷兵が処置されている物音だった。

 負傷兵が床に所狭しと寝かせられていた。彼らの流した血、体液、糞尿、吐瀉物が、水たまりのように地面に広がっている。四肢のない者たちは切断部位を汚い包帯で覆われている。清潔な包帯はもうないようだ。

 包帯の隙間、ぽっかり空いた眼窩、口、鼻にハエがたかり、白い米粒のような蛆虫がたくさん蠢いていた。彼らは生きながら蛆虫に少しずつ肉を食まれ、解体されていくのだろう。

(重傷者たちを助けるには、ウタリの血は少なすぎる──)

 幼い身体に入っている血はわずかだ。カサカサにならないようにするには、雀の涙ほどの血液量で我慢するしかない。

(重傷者は大量の血液を必要とするため治療対象外⋯⋯ここにいるみんなは、ただ死を待つのみだ)

 ラフマンは負傷兵たちの間をなんとか通り抜け、奥の明るい部屋へ進んでいく。

 入口を通ると、そこには魚の解体現場のような光景が広がっていた。

 電灯に照らされる各台の上で、真っ黒に壊死した手足をノコギリで切断され、あるいは意識があるまま開腹され内臓にメスを入れられる島兵たち。

 もう散々痛みに叫び散らしたのだろう、発せられる呻き声はがらがらに枯れていた。衛生兵たちの帽子もマスクも血まみれで、彼らが何時間もここで切断作業を続けていたことを物語っている。

 切断された手足はバケツに入れられ、どこかに運ばれていく。拾った木の棒をバケツに差し込んだだけのような見た目にしか見えなかった。

「三十番、サイレンス投入」

 どこからか安楽死を告げる声。

「二十七番、サイレンス投入」

 ラフマンは後ろを振り返り、通路に捨てられたように並べられた負傷兵たちを思う。

 彼らにもサイレンスを投入してやればいいのに。蛆虫に食われて、肉を裂かれる激痛に苦しみながら死ぬよりはるかにましだろう、と。

 そこでラフマンは気づく。

(そうか。もう、サイレンスすら枯渇しているのか)

 放置された負傷兵たちは、サイレンスの慈悲すら受けられないのだ。安楽死決定になるのは、選ばれた運の良い奴だけ。

 ラフマンの胸の奥に、言葉にならない重苦しさが残った。

(負傷兵を輸送できる後方基地が、もう縦深陣地しかないんだ)

 たかが二等兵の妄想に過ぎないが、前線部隊は敵の先遣隊にほとんどやられ、命からがら撤退してきて縦深陣地の各遊撃区に編入された。そのため、遊撃区には大量の負傷兵が押し付けられるはめになったのだろう。

 遊撃区は時間稼ぎのための陣地に過ぎず、補給物資は短期間滞在を想定した備蓄のみ。薬品やサイレンスが一気に枯渇するのは当然のことだ。

 セルク島戦線は、時間稼ぎのための捨て駒の戦場に過ぎない。今までは歩兵駐屯地の座学知識のみで理解していたが、放置された負傷兵たちを見て身を持って実感した。お前もゴミだと後ろ指を刺されるような、やりきれなさが込み上げる。

(俺たちは、餌場を守るための生贄だ)

 セルク島には飛行場や精油施設が点在している。占領されれば、爆撃機の中継地点を敵に奪われ、ラグドル海商連邦本国への空襲が容易になる。

(守りの基本は、敵に来てくださいと誘うことだ。旨味も何もない土地は、戦場にもならない。美味そうに見せておいて、最後は骨までしゃぶられる)

 ラグドル海商連邦──諸島の寄せ集め国家。

 本土のエリートたちは、島防衛軍を「外縁部」としか見ていない。

 敵が攻めてきたら、外側の島々で食い止めろ。本土艦隊が海の向こうから一気に叩く、それがこの国のやり方だ。

 だが、その捨て石が何人死のうが、本国には関係ないこと。

「ラフマン二等兵」

 呼びかけられてラフマンは後ろを振り返った。顔とマスクと帽子を血と黄色い皮下脂肪でぎとつかせたヴァレンス衛生隊長が、虚ろな眼差しでラフマンを見ていた。白目は血管が浮き出て黒い瞳は焦点が定まっておらず、目縁は隈で黒ずんでいる。

「ヴァレンス衛生隊長殿」

 ラフマンは姿勢を正して敬礼する。

 ヴァレンスは疲れ切ったようなやつれ声で訊いた。

「何だ? 上申か?」

「はい。ウタリ壕に観測班長ファディル少尉殿が無断侵入致しました」

 ヴァレンスは死人のような目を細める。

「ファディル少尉? あの観測班長が?」

「はい。ファディル少尉殿は交代時間に勝手に持ち場を離れて、ウタリ壕へ侵入しました」

 ヴァレンスは突き放すように吐き捨てる。

「馬鹿言え。あの壕は秘匿だろうが。遠く離れたところの観測壕にいるファディル少尉にわかるわけがない!」

 ラフマンは自分の迂闊さを呪った。ファディルの神眼が異能力だと知らない者には、なぜ奴がウタリ壕を特定出来たのかわかるわけがない。

 生体反応粒子──人間が放つ何かを、ファディルには手に取るように見えている。奴はウタリやラフマンの放つ生体反応粒子をたどって、ウタリ壕を特定したに違いない。

「信じて頂けないかもしれませんが、ファディル少尉殿にはわかるのです」

 だが、そんな話をしても、誰も本気で取り合いはしない。

「そんな話、信じられるか。帰れ。邪魔だ」

 ヴァレンスは背を向けて去っていく。

(このまま引いたら、ファディルの思う壺だ)

 ラフマンは咄嗟にヴァレンスの背を追い、引き止める。

「ファディル少尉殿はウタリを解剖し、大量出血させましたっ!」

 ヴァレンスが立ち止まる。驚きを隠せない、といったような強張った表情をこちらへ向け、ヴァレンスは問う。

「今、何と⋯⋯」

「ファディル少尉殿が壕に侵入したことは信じて頂けないかもしれません。でも本当です。実際に現場を直接見て頂ければ、ご理解頂けると思います。現場には、ウタリの大量の血が染み込んだ寝袋があります!」 

 ヴァレンスはしばらく黙り込んだ後、言った。

「⋯⋯案内しろ」

 ラフマンはヴァレンスと共にウタリ壕へ向かった。遮光布の奥から、赤ん坊がけたけた笑うようなウタリの笑い声が響いている。

 ヴァレンスの呆れたような声がした。

「元気にしてるじゃないか」

「ご覧ください」

 ラフマンが遮光布をめくって血まみどろのウタリ壕を見せると、ヴァレンスは息を呑んで後退る。

 血でぐっしょり濡れた寝袋の上を、ウタリが泥遊びする犬のようにごろごろ転がりながら遊んでいる。銀色の髪が赤一色になるほどの血だるまになりながら、ウタリははしゃぐ。

「カサカサなんない! ウタリ、カサカサなんない!」

 ヴァレンスはその場にしゃがみこみ、四つん這いになって壕に入り、寝袋の血を指で掬って匂いを嗅いだ。

「甘い匂い⋯⋯ウタリちゃんの血か、これ」

「はい、そうであります。そして、ここにファディル少尉殿がいた証拠が」

 ラフマンは壕の中の壁を指差した。ヴァレンスが指先を追うように顔を向ける。岩壁に血で綴られた難解な数式の羅列。奴がここにいたことを示す証拠だった。

「ファディル少尉殿が書いたものです」

「物理学、の数式に似ているな。観測兵なら物理学は知ってて当然だ」

 ヴァレンスは壕内を見回し、喉を鳴らした。震える腕を伸ばし、寝袋のそばに置かれたものを指差す。指先が、風に揺れる枝のようにがたがた震えている。

「何だ、あれは⋯⋯」

 指差す先にあるのは、肉物の山がのった皿。

「ウタリの肉です」

「に、く⋯⋯?」

 事実を伝えることで、ヴァレンスの精神が決定的に崩壊してしまうかもしれない。だが、伝えなければ何も変わらない。

「ファディル少尉殿の食べ残しです」

「食べ残し⋯⋯?」

「はい。奴は⋯⋯」

 酸っぱいものが喉奥から込み上げてくるのを必死に堪えながら、ラフマンは静かに答える。

「ファディル少尉殿はウタリを解剖し、内臓を取り出し、食べていました。まるで料理を食べるように、美味しそうに」

 ヴァレンスが呻き、えずく。吐瀉物の飛び散る生々しい音が、壕の中に響いた。

 たくさんの死体と内臓を見てきた衛生隊長とて、人肉を平然と食うという現実だけは理性で処理しきれなかったのだろう。

 優雅に人肉を貪っていた奴の姿を思い出し、頭がくらりと酔ってラフマンは岩壁に手をつく。

「ファディル少尉殿は──狂っておられます。小さな子供の腹を平気で引き裂き、内臓を取り出して食らう。あれは、人でなしの外道です」

 最初は、ただの嫌味ったらしい性悪クソメガネだと思っていた。

 まさか、ここまで狂っていたとは、一体誰が想像できようか。

「お医者さん、血を抜きに来たの?」

 ウタリの怯えるような声がして、ラフマンは壕の中に目を向けた。真っ赤に濡れたウタリが、小さな身体を縮こませるようにして膝をついていた。

「ウタリ、違う。この人は──」

「ファディルがいい! ファディルを連れてきて!」

 ラフマンの胸に、冷たいものが走る。あの外道を、ウタリは必死に求めるように呼び続ける。

「ファディル、ウタリカサカサにしなかったもん! たっくさん血を抜いても、カサカサになんなかったもん! だからファディルがいいの! ファディルを呼んでよ!」

 膝から力が抜けて、ラフマンはその場に膝をつく。

 ウタリの心は丸ごとファディルに握られていた。

 ヴァレンスが、心底絶望したような声色で言った。

「ラフマン二等兵、この子はもうだめだ。完全に洗脳されている」

「洗脳⋯⋯」

 ウタリのあの『坊ちゃま』『おかえりなさいませ』は、きっとメイドさんごっこだったのだろう。

 ファディルは遊びを装ってウタリの警戒心を解き、解剖した。

 ウタリはもう、あの狂人になついてしまっている。

 そうさせたのも、全部ファディルの計算だった。

 ラフマンは地面の岩肌を、爪が割れるほど強く引っ掻いた。

(──外道。てめぇ、何がしてぇんだよ)

 小さな子供を解剖して、内臓を食うことの一体何が、面白いというのか。

「何で怒ってるの、ラフマン」

 ウタリは首を傾げている。

「ウタリ、楽しかったよ? ファディルと遊んで」 

 ウタリがファディルに心を掴まれたそもそもの原因は、自分の裏切りにある。自業自得だ。しかし、それでも言わなければならない。

「ウタリ、あいつは──」

 あいつはお前を玩具にしか思っていない。友達のふりをして、更に傷つけようと企んでいるんだ。だから仲良くしちゃいけないよ。

 その言葉が唇まで突き出ようとした時──

「ウタリの内臓、ファディルが美味しそうに食べてたの、ウタリね、嬉しかった」

 ラフマンは首を横に振る。だが、彼女を否定する言葉が見つからなかった。

 ウタリの浮かべる笑顔が、あまりにも無邪気で、明るかったから。

「ウタリ、また食べてほしいな。今度は、食べ放題にしてあげるの」 

 まるで、家に帰った友達とまた遊びたいな、と名残惜しむような口調だった。 

 その言葉に、ラフマンはもう何も言えなかった。 頭を垂れ、爪に血が滲むほど地面を握りしめる。

(ファディルは解剖するために遊んだ。それをウタリが楽しんでいたのは、事実)

 ウタリの「楽しい」を否定することが、はたして彼女のためになるのか、何も答えが見つからなかった。

 ウタリが残念がるように言った。

「──楽しい時間って、あっという間に過ぎるのね。ぽたん、ぽたんって。早いね」

 そのぽたん、ぽたんは、きっと血の落ちる音だろう。

 ウタリは『一時間』も『六十分』を知らなかった。まだ幼くて、時間というものがわからなかったのだろう。

 彼女が時間を知ったのは、ファディルに血を抜かれ、肉を与え、楽しいと感じてしまったあの瞬間だった。

 解剖と食人が、ウタリにとってはかけがえのない時間として刷り込まれてしまった。

 隣りにいるヴァレンスが立ち上がった。

「ラフマン二等兵。これは衛生隊にとって由々しき事態だ。我々の命綱であるウタリちゃんを傷つけた罪は重い。もし今後またあいつが鬼畜行動に出て採血ができない事態になれば、軽傷者並びに蚊熱患者を治療できず重症化させてしまうことになる」

「ヴァレンス衛生隊長殿⋯⋯」

 ヴァレンスは肩越しからラフマンを見た。

「このことはガマン軍医に上申する」

 衛生隊から警告を突きつけられれば、あいつだって下手には動けなくなるだろう。

 ラフマンは立ち上がり、ヴァレンスに敬礼した。

「ありがとうございます、ヴァレンス衛生隊長殿」

 ◆ ◆ ◆

 ウタリ壕を離れて通路を歩く間、ヴァレンスは脳内にべったり貼り付いて離れない肉物の光景に悶絶していた。

 髪の根元に指を突き立てて引っ掻き回し、どんなに振り払おうとしても、山盛りの人肉料理の映像が色鮮やかにくっきりと再生される。まるでこれを食え、と言わんばかりに何度も何度も執拗に。

 胃から酸っぱいものが込み上げてきて、ヴァレンスは空嘔吐した。

「なんなんだ、あれは⋯⋯」

 焼け付くような胃液を口から垂らしながら、ヴァレンスは岩壁に手を付く。

 上から雨のように滴る水が溜まって出来た水溜まりに沈む足元を、じっと見つめる。自分の顔に集中することで、なんとか人肉料理の映像を意識の後方へ追いやろうとする。

 誰かの足音が背後から響いてきた。複数人が、水を蹴りながらこちらへ向かってくる。肩越しから振り返ると、担架に負傷兵をのせた衛生兵たちが列を成して歩いてくるのが見えた。

(まだ来るのか⋯⋯)

 カイラス岳遊撃区に編成されてから約一日目、前線からひっきりなしに負傷兵たちが運ばれてくる。既に陸軍病院は満床、漏れ出た負傷兵たちは各所の遊撃区をたらい回しにされている。噂では、治療を受けられていない負傷兵は数万人に昇るという──。

 そばへ来た衛生兵たちが、消耗しきって焦点の定まらない目でヴァレンスを見てきた。目の縁に隈が、眼球は桃色に見えるほど酷く充血している。極度の疲労と不眠が原因だろう。

 衛生兵の一人が言った。

「ヴァレンス衛生隊長殿、第三衛生壕に七名追加で──」

 ヴァレンスは首を横に振る。

「満床だ。死ぬまで放置するしかない」

 重傷者は助けられない。手足を切り取り、ただ放置して死ぬのを待つのみだ。

 衛生兵は肩を落として溜め息をつく。

 ヴァレンスは岩壁に拳を叩きつけ、歯を食いしばる。

(ファディル少尉、なぜウタリちゃんを乾燥状態にせず大量出血できたんだ?)

 赤く濡れた寝袋をヴァレンスは思い出す。あれは、幼い子供から出たとは思えないほどの出血量だった。

(まさか⋯⋯)

 森の中で、イルハム兵長が持ってきたあの肉。

 ファディルがあの肉をウタリに投与した時、血管が脈打って血を噴出させた。

 間違いない。ファディルはあの肉を用いて、寝袋がべっとり濡れるほどの血液を放出させたのだ。

(何だったんだ、あの肉は)

 イルハム兵長は、一体何を持ってきたんだ。

 ヴァレンスの心の奥から、ふつふつと沸き上がってくるものがあった。

 あの肉があれば──という、願いが。

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