1-5 おつかれおじさん

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 太陽が海に帰って、夕方が訪れた。枝と枝がたくさん重なった薄暗い頭上から、オレンジ色の木漏れ日が降り注いでいる。

 先頭から順に「ショーキューシ」という言葉が聞こえてきて、ウタリの足元のラフマンも同じように伝えた。

 島兵たちは倒れ込むようにして腰を下ろす。木を枕にして寝る人、喉が渇いたのか草を引き抜いて汁をちゅーちゅー吸う人、色んな人がいる。

 ショーキューシは、お休み時間のことらしいとウタリはなんとなく理解した。

「おりろ」

「ふぇ?⋯⋯わぁ!」

 突然ラフマンがウタリを茂みに放り投げた。視界がぐるりと宙返りし、全身がざらざらした固い草の中に沈み込む。茂みの尖った枝が手足に突き刺さり、じんわりと違和感が広がる。

 気持ち悪さに呻きながらウタリは立ち上がり、手足から枝を引き抜いて文句を垂れた。

「もぉ、何するのよ!」

 ラフマンの大きな溜め息が聞こえてウタリは彼を見た。

 ラフマンは木に背をもたれさせ、ぜぇぜぇ息を小刻みに繰り返している。顔中から汗が噴き出て、肌にこびりついた泥を巻き込んで伝い落ちていく。

「ラフマン、疲れたの?」

 ラフマンが目を細めてウタリを睨んだ。鬼みたいなラフマンの顔にきゅっと肩が縮こまる。

(ウタリが歩かなかったせいで、ラフマンくたくたになっちゃったのね)

 しかしウタリはちょっとでも歩くとすぐ疲れてしまい、みんなに置いてけぼりにされるからラフマンにおんぶしてもらわないと困る。

 こうなったら倒れた島兵さんと同じように、血を飲ませて元気にしてあげよう。

 ウタリはラフマンの肩にかけた木の棒の包丁で腕を切り、垂れた血を手ですくった。

 何するんだ、と訊くようにラフマンが怖い顔でウタリを見上げてくる。怒られるかな? でもラフマンが元気にならないとおんぶしてもらえない。

「ラフマン、これ飲んで。元気になるよ?」

 ウタリがラフマンの口元に血が溜まった手を近づけた時、彼は目にも止まらない早さでその手をはね除けた。

 血が地面に飛び散り、叩かれた手にかゆみが走る。

 人に手をばちんといきおいよく叩かれたのははじめてだった。びっくりと、背筋が冷たくなるようなぞわぞわする感じが一緒に来る。

 ラフマンは舌打ちして頭を垂れた。ウタリを無視するように。

(ラフマン、怒ってる)

「ごめん⋯⋯なさい⋯⋯」

「どうしたんだい?」

 優しい声が隣から聞こえて、ウタリは声のするほうを見た。滝の前で倒れたあの島兵が、茂みの中を進みながらウタリのほうへ向かってくる。

「あ、おつかれおじさん」

 おつかれおじさん──咄嗟に思いついた名前でウタリはそう呼ぶ。倒れた島兵はにっこり笑った。

「うん、君に助けてもらったおつかれおじさんだよ。どうしたの?」

「あのね、ラフマンがね、血ぃ飲ませようとしたらウタリのお手々叩いたの」

「あらら⋯⋯」

 おつかれおじさんは腰を低くしてラフマンに優しく言った。

「ラフマン二等兵、君もこの子に助けてもらった身じゃないか」

 ラフマンは何も言わない。無視されてもおつかれおじさんは続ける。

「この子は君を元気にしてあげようとして血を飲ませようとしたんだ。それに、この子はまだ小さいんだよ。そんなさ、乱暴にすることはなかろうよ」

 悪いことをした子供をそっとたしなめるようなお父さんみたいだ、と思いながらウタリは二人のやりとりを見つめる。しばらくして、ラフマンはぼつりと呟く。

「誰が魔女の血なんか飲むものか」

「ははっ、魔女? 確かにこの島には『人を惑わし攫い、人肉にして秘薬を作る不死身の魔女がいる』って言い伝えがあるそうだね。僕は島の外から召集されたんで、この島の人たちの迷信には疎いんだが⋯⋯で、君はこの子が魔女だって思うのかい?」

 ラフマンは頷いた。

「でも、それだったらおかしな話だ。確かにこの子は魔法の力を持っている。もしかすると本当に魔女の仲間なのかもしれいね。だが、言い伝えの魔女とは違って、自ら誰かの傷を癒したり、元気にしてくれたじゃないか。この子は、純粋に人助けがしたいいい魔女なんじゃないかな?」

 ラフマンは弾かれるように顔を少し上げたが、また俯いてしまった。

 おつかれおじさんはウタリのほうを見て、微笑む。

「君は『おたすけまじょさん』という絵本に出てきた、困った人を助けてくれるいい魔女さんみたいだね」

 おたすけまじょさん。誰かを助ける魔女のことだろうと理解し、ウタリは小首を傾げる。

「おたすけまじょさん⋯⋯ウタリが?」

「そうだよ。僕みたいに疲れた人がいたら、血を分けてあげてね」

 島兵たちが口々に「魔女の血なんて絶対にごめんだ」とか「誰がそんなもの」と言う。その時──

「面倒くさいですねぇ」

 茂みの中から声がして、ウタリは顔を上げた。正面の草の中に埋もれて、銀髪赤目のお兄さんがガラスの筒をこちらに向けていた。

 彼の隣には「班長、班長」と言いながら裾を引っ張る人がいる。銀髪赤目のお兄さんは筒を下ろし、眼鏡越しのくっきりとした美しい切れ長の目縁を細める。

「これだから迷信深いこの島の田舎者どもは困るんです。魔女だの神だの、非科学的で根拠のないものを平気で信じて塹壕に魔除けの札を貼ったり、魔女に怯えて夜間突撃を怖がったり、島の護り神ヴィシャヌに貴重な糧食を供え物したり⋯⋯おかげで作戦に支障を来たすことが多々あります」

 銀髪赤目のお兄さんは続ける。

「せっかく手に入れた唯一無二の『医薬品』です。魔女だのなんだ言わず、有効活用すべきです」

 おつかれおじさんが小声で「医薬品ってこたぁないだろ、あいつ」と怒ったように言った。

「⋯⋯何がわかる」

 ぼそりとラフマンが呟いて、ウタリは彼を見た。平たい帽子の下から見えるラフマンの口元が、きゅっとひきつっていた。肩もぶるぶる小さく震えている。怖がっているのは見て取れた。

「ラフマン、どうしたの?」

「お前らに、何がわかる。魔女はいるんだ。だって、俺の家族は⋯⋯魔女に皆殺しにされたんだ」

 ラフマンは震える声で魔女のことを語り出した。

「俺の村じゃな、夜になると誰も外に出ないんだ。魔女が出るからって、玄関の扉に魔除けの札を貼って、犬も家の中に入れて、誰も夜道を歩かない。もし、家族の誰かが熱を出して苦しんでても、夜だけは誰も医者を呼びにいけないんだ。外に出たら、魔女の祟りを受けるから」

 葉擦れの音が響く静かな夕暮れ、周囲の島兵たちも息を潜めて耳を傾けていた。

「前にな、こっそり夜に家から出ちまった妹が翌日高熱を出した。妹は真夜中に家を飛び出して、でかい奇声を繰り返しながら村中を走り回って。俺と村の大人たちが妹を捕まえたら、白目を剥いて泡を吹いて「殺す、殺す、殺す、殺す」とぶつぶつ呟いていた。そしたら村の巫女様が『魔女の使い魔が憑いた』って言って、妹を家に閉じ込めて除霊の儀式をした。家からは妹の殺す、殺す、殺す、殺すという物凄い罵声が一晩中聞こえたんだ」

 ラフマンは寒がるように肩を手で擦った。

「妹は次の日、死んだ。みんな『魔女に魂を取られたって』って言っていた。そして数日後、両親も立て続けに重病を患って死んだ。あれは間違いなく、魔女の仕業だ」

 ラフマンはどこか抜け殻のような表情になった。

「さらに酷かったのは、村人たちが妹と家族の死体を侮辱したことだ。死体を犬どもに食わせて、乗り移った魔女の呪いを食べてもらうってさ。惨い肉塊になっていく両親と妹を見て、村人たちは笑った。『魔女に祟られた汚物の掃除だ』って。犬は不浄なものを食べて消してくれると村人たちは信じていた。魔女の祟りを受けた家族は、不浄な汚物として犬どもの餌になった」

 ラフマンの目から一筋の涙が伝い落ちる。何で泣いてるのかな、とウタリは首を傾げる。

「俺の家族と仲の良かった人たちまで、一緒になって笑っていた。家族が魔女を殺したのと同じぐらい、許せなかった。そして俺は、村人から『呪いを受けた奴』と嫌われて無理矢理村を追い出された。町を無一文で歩いていた俺は、金と飯のために防衛軍に志願した。で、結局たどり着いたのがこの地獄よ」

 沈黙が降り、突然棒読みするような声が聞こえてきた。

「妹さんの奇行は恐らく高熱による熱せん妄でしょう」

 銀髪赤目のお兄さんのほうに、みんなの視線が寄っていくのをウタリは見た。

「クソメガネ⋯⋯」

 誰かがイラッとしたように呟く。銀髪赤目のお兄さんを見るみんなの目はとても冷たくて、とげとげしくて、ウタリは身を縮こめた。

 銀髪赤目のお兄さんは睨まれていても全く気にしていないようで、赤い虚ろな目でどこか遠くを見ているようだった。

 お兄さんは相変わらずの棒読みで続ける。

「戦場でも、蚊熱に脳をやられて寄声を発し暴れる者がいます。あなたたちの周りにもいませんでしたか?」

 島兵の一人が「いたな、そういえば」と呟く。

「早く医者を呼べば助かっていたかもしれないのに、奇行を魔女の祟りという非科学的な原因と断定し、放置。あまりにも愚かですね」

 そう言って、銀髪赤目のお兄さんはどこかへ去っていく。

 みんながひそひそお兄さんの悪口を言い合うのが聞こえた。

「クソメガネ、ほんとうっとおしいな。さっさと死ね」

「一々しゃしゃり出てくるわ、上官を平気で罵倒するわで、ほんととんでもないド変人だ」

(お兄さん、悪口言いに来ただけかな?)

 最初に出会った時も、なんかみんなに凄い悪口をまくしたてていた。あれが銀髪赤目のお兄さんのお遊びなのかもしれない。

(⋯⋯やっぱり、変な人。ウタリとすんごくそっくりだし)

 そういえば、何で自分と同じ姿をしているのか教えてもらうのを忘れてた。

(もしかして、ウタリのお兄ちゃん?)

 いや、まさかそんなことはとウタリは首を横に振る。ウタリに兄はいない。それともウタリが生まれる前に奉公に出された兄がいたのか。いや、仮に奉公に出した兄がいたならば、両親が彼のことを打ち明けていたはず。

 それに、銀髪赤目のお兄さんと両親やウタリは全然顔が違う。本当に兄だったならば、ウタリだってとびっきり整ったお人形さんみたいな顔をしていたはずだ。

 お兄さんとウタリは、おそらく完全に他人だ。

 だとしたら、なぜあんなにも見た目がそっくりなのだろう。

 今度あった時には、ちゃんと聞こう。

 次の日の朝、ウタリはおつかれおじさんと木の下の花畑で草花遊びをしていた。
 ウタリは、おつかれおじさんに作ってもらった花の腕輪を腕にはめる。苺のような赤い小さな花が可愛かった。

「これ、かわいい」

 おつかれおじさんが言った。

「次は何を作ろうか」

 おつかれおじさんのほうに向き直り、ウタリは上を向いて考える。

「⋯⋯えっとね、花冠!」

「よし」

 おつかれおじさんは足元の赤い花をむしり出す。彼が花冠を作っている間、ウタリはラフマンを探した。島兵たちの中に、俯いて眠るラフマンの姿があった。

(ラフマン⋯⋯)

 もう、ラフマンはおんぶしてくれないのだろうか。

(ウタリが、血をあげたのがだめだったの?)

 血を飲んだら元気になるのに、どうして捨ててしまったのか。きゅっと胸の詰まるような感覚を覚えて、ウタリは胸に手を当てた。

(⋯⋯ラフマン、へんなの)

 今は、おつかれおじさんと遊んでいよう。

 ガサガサと近くで草の揺れる音がして、ウタリは音のする方を見た。銀髪赤目のお兄さんと、黒髪黒目の地味なお兄さんの二人組が茂みから覗いている。眼鏡のお兄さんは望遠鏡でウタリを見ていた。またあの二人だ。どうしてよくウタリのそばにくるのだろう。

「お兄さんたち、どうしたの?」

 おつかれおじさんが「何やってんだあいつら」と呆れたように言った。

 何だろう? と期待して、ウタリはお兄さんたちのところへ駆け寄る。

「あなたたち、誰なの? 何でウタリのこと見てるの?」
 
 地味なお兄さんが答えた。

「僕はノリ一等兵。隣の銀髪赤目のお兄さんはファディル班長。班長、ウタリちゃんのこと気になって仕方ないみたい。同じ姿だから、かな?」

 ノリ・イットーへーはウタリとファディル・ハンチョーを見比べ、不思議そうに目をまんまるにする。

「こう並ぶと、なんか兄妹みたいだ」

「ウタリ、お兄ちゃんいないよ?」

「うん。本当の兄妹じゃないのに、そっくりなのは不思議だね」

「何でウタリたち、似てるの?」

 ファディルは双眼鏡でウタリを見ながら言った。  

「それはこちらの台詞ですよ、医薬品」

「イヤクヒン?」

 謎の言葉にウタリは首を傾げる。

 ノリが呆れたように言う。

「おいおい、薬扱いかい」

「我が部隊唯一の医薬品ではありませんか」

 ノリの言葉から、医薬品とはお薬のことを言うらしいとウタリは察する。

 確かにおつかれおじさんに血を飲ませたら元気になったし、ファディルがウタリをお薬って呼ぶのはおかしくはない。

(イヤクヒンって、もしかして⋯⋯ウタリにあだ名、付けてくれたのかな?)

 ウタリは小屋に来る村人たちから「ウタちゃん」「ウッちゃん」と呼ばれていた。

 名前と別の呼び方は、仲のいい人、友達にしかしない。イヤクヒンも、たぶんファディルの考えてくれたあだ名なんだろう。

 友達になりたいと思うきっかけは、『自分と同じ』こと。同じ色が好き、同じお遊びが好き、とか。

 ファディルはウタリと一緒の銀髪赤目という見た目だから、友達になりたいって思ってあだ名を付けてくれたんだ。 

 ウタリはにっこりする。 

「イヤクヒン、いいあだ名ね!」

 ノリは首を横に振る。

「あーあ、変なこと教えちゃったよ」

「医薬品、実によいあだ名です」

 ウタリは喜んで手を叩く。

「だよね! だよね! ウタリ、イヤクヒンだね! お薬! きゃははっ」

 ファディルはウタリの腕を筒で覗き込み、ぶつぶつと呟く。

「生体反応感知。〇.五秒感覚で数字が各毛穴から百三十七個検出。周波数は⋯⋯」 

 ノリがびっくりしたように声を上げる。

「毛穴!? どこ見てるんだこの変態っ」

「変態。それは変質的な性的志向を示す俗語、ですよね? ですが、今私がしているのは表皮温度の拡散値と毛穴から放出される数字の量の観測です。それは、性的に分類されるものなのですか?」

 ウタリは自分の腕を見た。毛穴とははんだろう。小さな毛が生えているだけで何も見えない。

「毛穴ってなぁに?」

「毛が生えている穴です。あなたの場合、平均幅〇.三五ミリです」

「だからどこ見てんだぁっ!」

 ウタリは毛をじっと見たが、やはり穴は何も見えない。目に見えないぐらい小さな穴が、ファディルには見えるらしい。なんて目が良いのだろう。全身の毛がぞわぞわするような衝撃が走る。 

「凄いねファディル。見えないくらい小さい穴見えるの? ウタリわかんない!」

 ファディルは、今度は足元の雑草を引き抜いてむしゃむしゃ食べ始めた。雑草からお鼻のスースーするような匂いがする。

 雑草の名前はわからないが、小屋の周りにも生えていたやつだ。食べたら口の中がお薬味になり、吐いたことがある。よくそんなもの、むしゃむしゃ食べられるなぁ。

 ウタリはファディルの動く口をじっと見つめながら、首をかしげて訊いた。

「ねぇファディル、それ、なんていう葉っぱ?」

 ファディルは噛みながら答えた。

「ミントです。効能があります。気道を開き、集中力を上げる。鎮静作用も。コーヒーには及びませんが、代用にはなります」

「でも、くすりみたいな味するよ。ウタリ、吐いちゃった」

 ファディルは無言でくっちゃくっちゃ食べるだけ。ノリが答える。

「班長のご飯、ミントなんだ。変わってるだろ?」

「⋯⋯!?」

「ほらド変態、行くよ」

 ノリはファディルの袖を引っ張っていく。ウタリはぽかんと口を開けたまま、二人が草むらの中に消えていくのを見つめた。草むらから二人の声が聞こえる。

「班長、女の子の毛穴観測するの禁止っす」

「私はただ、医薬品の生体反応を観測していただけですが⋯⋯」

 二人が消えた後、おつかれおじさんが隣にやってきた。

「三人で何話していたんだ?」

「ファディルっていう銀髪赤目のお兄さん、ミントがご飯なんだって」

 おつかれおじさんは笑った。

「はは、ミントがご飯か。あいつはこの部隊屈指のド変人だからなぁ」 

「ふぅん⋯⋯⋯⋯あれ?」

 二人が消えていった草むらに伸びる一本の木の裏側に、誰か立っていた。長くて黒い髪をだらりと垂らした、変な人が。

(また変な人がいる)

 髪の毛の隙間から、闇に覆われた見えない顔が覗いていて、腹に氷を埋め込まれたような寒気が走る。

(おばけかな?)

「イルハム兵長だ⋯⋯」

 おつかれおじさんが、怯えるような声色で呟いた。

「イルハム?」

「普段みんなと一緒に歩いていないのに、でもいつの間にかいる不気味な奴だよ。ファディルは変人、あいつは⋯⋯幽霊、という感じだ」

 イルハム・ヘイチョーは、髪の毛の隙間からずっとウタリたちのことを見ているようだった。

 だが瞬きした途端、突如イルハム兵長の姿が消えた。足音も、草の揺れる音もしなかったのに。
 足元から震えが這い上がってくる。

「え⋯⋯」

 目の前で起きたことを理解できず、頭が固まったように動かなくなって、ウタリは息を吸うのも忘れる。

「き、消えた⋯⋯イルハム・ヘイチョー、どこ?」

 おつかれおじさんは、慣れているような平然とした声で言う。

「さぁ。あいつ、見えても突如消えるんだ。まるでそこにいなかったみたいに」

 ウタリはおつかれおじさんに抱きついた。自分の腕がガクガク震えているのがわかった。

(──変な人、いっぱい)

 ◆ ◆ ◆

 その日の夜、爆音のような雷音が轟くとともにスコールが降った。バケツをひっくり返したような豪雨が、暗闇を仄白く染めるほどの密度でジャングルを叩きつける。

 熱帯のジャングルとは思えないほど凍てつくような雨に打たれ、ラフマンたちは体温を奪われないよう油を塗りつけた雨具を被っていた。

 地が泥濘んで足が沈み、転びそうになる。転んだら踏みつけられて怪我をし、落伍兵として捨てられる。まぁそれでよいかと思う反面、身体は生きようと震えながら歩いていく。

 雨の轟音をつんさぐように、ウタリの鈴の鳴るような声が聞こえてきた。

「あめ〜、あめ〜!」

 前方に、フキのような大きな葉を持って落伍兵におぶられるウタリの影がちらついている。一昨日刺されたことも忘れたように、ウタリはご機嫌そうだ。

 ラフマンは、少女が自らを『ウタリ』と何度も名乗ったため、それを彼女の名前だと認識していた。

 ウタリ──『調和』を意味する名前だ。魔女には全くもって似つかわしくない。

(なぜ、祟らない)

 分けた血を投げ捨てるという、魔女を激怒させるに相応しい侮辱をしたはずなのに。

(お前、魔女だろうが)

 なぜ、どうして。でも答えは見つからない。一つ分かるのは、ラフマンの仕打ちをウタリは全く気にしていないこと。

 考えふけっていると、周りの背の高い茂みが減っていき、腰辺りまでの高さの広い葉を持つ植物が増えてきた。

 ウタリが持っている植物と同じ、カラリヤの葉。

(カラリヤ湿原──近くだ)

 もう少しだ。敵は近い。ラフマンは緊張に、曲がった背筋を少し伸ばした。

 薄明。頭上を覆う枝々の隙間から、白けた空が覗いている。

 周りの島兵たちはカラリヤ原周辺の森で泥の中に腰を落とし、斥候三名が帰ってくるのをひたすら待つ。

 ラフマンはぬるい泥の中に座り、軍服に染み込み重くなるのを感じていた。身体が重くなっては身動きが取りづらい。
隣に座るウタリが訊いてくる。

「ねー、何でみんな泥んこお風呂してるの?」

 ラフマン二等兵、貴様はウタリのお守りをしろというアリフ中隊長の命令でまた世話を押し付けられてしまった。

 林の中にアリフ中隊長と誰かの口論が響いていた。

「追撃部隊が消息不明の今、通過するのは危険すぎます! 迂回するか、せめて待機、撤退を!」

「だから言ったのだよ、何度も! この状況では危険だから、湿原を迂回、待機、撤退させてくれと! だが大隊本部は『予定通り通過しろ』と突っぱねた!」

 彼らの口論を聞いていて、ラフマンはだいたいの現状を把握した。

 カラリヤ湿原に到着する十分前、突如大隊本部から「追撃部隊が音信不通になった」と連絡がきたらしい。

 最後の連絡には、ノイズに一瞬誰かの悲鳴が混じっていたという。それからずっと、音沙汰なし。

 大隊本部は混線として処理したが、隊長は危機を予想して迂回、撤退、待機のいずれかの指示を大隊本部に求めたが、通過命令をごり押しされたという。命令と湿地に板挟みにされたアリフ中隊長は引き返すこともできず、混乱し喚き散らすのみだ。

「通過、通過の一点張りだ! どうしろと言うんだ!」

 アリフ中隊長の被害者意識全開な反論に苛立ったのか、島兵たちも口を挟む。

「大隊本部に内緒で迂回、待機、撤退すればいいでしょうが」

「そうだ! 上の命令なんか無視しちまえ!」

 ラフマンも島兵たちと同意見だった。迂回して側面から挟撃する、でも十分よいだろう。

 だがアリフ中隊長は島兵たちの意見を突っぱねた。

「⋯⋯しかし、上の命令は絶対だ。勝手なことはできない」

 アリフ中隊長は俯いて両手拳を握りしめる。

 複数人の溜め息が聞こえた。ラフマンも呆れ返って木に寄りかかる。身心ともに泥の底へ沈んでいくような気分だった。

(結局、責任を取りたくないだけだ)

 大隊本部に無理矢理通過を命じられたせいにして、それを盾にすれば判断停止していられる。優柔不断、ナアナア、ここ極まれりだ。だが隊長が通過を決定してしまった以上、従うしかないのが兵隊というものである。

 一人の兵隊の不安そうな声が聞こえた。

「どうすんだよ、湿地に伏兵なんかいたら」

 誰かが笑う。

「いるわけねえだろ、馬鹿。泥沼で戦えるかってんだ」

 それについてはラフマンも同意だ。湿地は足を取られ、重砲もトラックも進まない。地の利は最悪で、まともな指揮官なら布陣など考えもしない。もしあんな場所に伏兵を仕込む指揮官がいたとしたら、アリフ中隊長より頭が悪い。

 アリフ中隊長は命じた。

「偵察班、予定通過ルートの浅瀬を偵察。目印も付けろ。二十分以内にだ」

 カラリヤ湿原には底なし沼と浅瀬が混在している。通過するには浅瀬を渡るしかない。アリフ中隊長曰く、大隊本部は戦前の資料からカラリヤ湿原の浅瀬を調べ上げ、通過可能なルートを選んでいたという。

 木立の間から、三名の偵察兵が走っていくのが見えた。

 ラフマンは木立の向こうの開けた場所を見た。木々の背後から淡路い朝陽が漏れている。

 あそこが通過地点、カラリヤ湿原だ。二十分後、朝陽を背景に斥候たちが戻ってきた。ラフマンの斜め迎えにいる隊長に彼らは報告する。

「浅瀬の泥の深さは膝下あたり。歩行可能」

 昨夜のスコールは早くに上がり、蒸発したのか水位は戻ったようだ。

 アリフ中隊長は不安そうに固い表情で俯く。

「器材トラブルによる音信不通ならばよいが⋯⋯」

 偵察兵たちも頷く。

「そう願いたいところです」

 アリフ中隊長は泥から立ち上がり、号令をかける。

「進軍開始。予定よりカラリヤ湿原に突入」

 島兵たちはヘルメットを被った。鉄製で重たいため、戦闘時以外は被らない。ラフマンもヘルメットを被り、顎下で紐をきつく結んだ。頭に鉄の重みがずっしりのしかかり、少し頭痛がした。

 ウタリが不思議そうに言った。

「ねぇ、何でみんなどんぶり被るの?」

 島兵たちは一斉に立ち上がる。

(7日薄明、アリフ隊はカラリヤ原を通過し追撃中の敵部隊を背後より挟撃せよ)

 脳内で命令を復唱し、ラフマンは泥から腰を上げ、触るのも嫌なウタリを嫌々肩車する。ウタリが肩に乗った途端、毛虫が皮膚を這うような嫌悪感が走った。

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