3-6 なかなおり

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 ラフマンは茂みを掻き分けながら、ノリと彼に続くウタリの背を追っていた。

 開豁地から離れて行軍し、小休止に入った時にラフマンはノリに呼ばれた。

『ラフマン二等兵。ウタリちゃんのこと、教えてあげるよ。付いてきて』

 そう誘われてラフマンは彼らに付いていくことになった。

 昼の焼け付くような日差しが枝々の隙間から降り注ぎ、日溜りを通り抜けるたびに服越しから肌を突き刺す。

(ウタリの、正体──)

 ずっとずっと魔女だと疑いもせず信じてきたが、ノリの「魔女ではない」という真剣味を帯びた声がラフマンの疑念の壁を少しずつ揺らがせていた。

(ノリ、あんたウタリの何を知ってるんだ)

 まるで知り合いのように、彼は平然と「ウタリちゃんは魔女ではない」と断定した。以前に会ったことがあるのだろうか、と勘繰ってしまう。

 隊列から少し離れた場所まで行くと、透明な小川の流れる川岸にたどりついた。水辺に生えるアシの草が点々と茂っている。

 ノリはウタリと向き合い、彼の腰辺りまでの背丈しかない小さな彼女を見下ろして言った。

「ウタリちゃん、手を噛み切って血を出してみて」

 ウタリはきょとんとしたような顔を浮かべていたが、言われた通りに指を噛み切る。指の傷口から血が滴り落ちるのが見えた。

 ノリはウタリの血を指差す。

「言ってみて。『あげる』って」

 ウタリは首を傾げて訊いた。

「誰にあげるの?」

「精霊に、だよ」

「精霊さんにウタリの血をあげるのね」

 承諾したようにウタリは頷いて、口を開く。

「──あげる」

 突然、木立の間を風が音を立てて吹き抜けていった。森の中は木々に風を打ち消されて無風のはずなのに、徐々に風の勢いが増していき、枝々が激しく揺れて木の葉が飛び交う。

 茂みがざわめき、撫でつけられた髪の毛のごとく風向きに靡く。

 ラフマンは風に煽られ、腕で顔を覆った。立っていられないほどの勢いに足が震え、足裏に力を込める。

 ただの空気のうねりではない。風の中に、何かの気配を感じる。
 見えないたくさんの何かが、ウタリの血に釣られて森の中を駆けている、ような⋯⋯。

 胸と腹のあたりを空気の塊のような何かがいくつもすり抜けていき、ラフマンは咄嗟に身体を擦った。──何もない。

(何だ、今のは)

 内臓の間を、ふわりとした何かが通り抜けていったような。

 ─────ごぉっ

 と突如凄まじい轟音とともに突風が吹き荒れ、ラフマンは押し倒されて茂みに埋もれた。いてぇ、と呻きながら立ち上がる。

 落ち葉まみれのウタリがひっくり返って、何が起きたのかわからないと言うように不安げな表情で辺りを見回していた。

 ノリがくすっと笑う。

「ウタリちゃんの血は大人気だね」

 ウタリが立ち上がり、ノリの方を見上げて訊く。

「何? 今の青い光の群れ。風がびゅーって吹いたら。ウタリのところにいーっぱい来たの。すんごく眩しかった」

 ノリは頷いた。

「今のはね、森の精霊たちがウタリちゃんの血を求めて一斉に集まってきたんだ」

 ウタリは目を見開く。

「え! あの青い光、精霊なの? あと、なんか凄い風が吹いた時、すんごぉく大きい白い魚みたいなのも通り過ぎていったの!」

 ノリは頷いた。

「白い魚、二本の角と六本の羽生えてたね」

「うん! ウタリも見た! ノリも見たのね!」

 青い光の群れ。角と翼の生えた大きな白い魚。ラフマンには何も見えなかった。見えるのは、ただの風と葉のざわめきだけだった。

 ノリとウタリ、あのふたりだけ、別の世界にいるみたいだ。妙な疎外感が、胸の奥を冷たく締めつける。

「何でウタリの血は大人気なの?」

 ノリはウタリの血を指差した。

「ウタリちゃんの血はね、最高級のご飯なんだ。この世のどんな捧げ物も取るに足らないほどの、もっとも清くてきれいなご飯さ。その血を一目見ただけで、精霊たちよりもっともっと偉い神様も狂ったように喜ぶ」

「神様も喜ぶご飯?」

「うん。神様もウタリちゃんの血が大好きだよ。あの大きい白い魚、この川の神様なんだ」

 ウタリはぱあっと顔を輝かせた。

「川の神様、来てくれたのね! ウタリの血って、凄いんだね!」

 ノリは穏やかな声で言う。

「とっても凄いよ」

 ラフマンは動悸が激しくなるのを感じた。

 ウタリの血が、神をも喜ばせる最高級のご飯──つまり、供物ということだろう。

 清くてきれいな供物のウタリがいたから、川の神が突風とともにやって来た。ノリの語った事実が、ウタリへの凝り固まった恐怖の壁に大きなヒビを生じさせる。音を立てて、少しずつ⋯⋯。

 ノリがラフマンのほうを振り返り、こちらへ近寄ってきて手のひらの上にのせられた透明な何かを見せた。扇形のガラスような薄い膜が、七色の艶と光の粒子を放っている。

 ウタリが駆け寄ってきて、目を丸くして鱗を覗き込む。ノリは鱗を見下ろして、言った。

「見て、これ。川の神の鱗。神に、ラフマン二等兵にも見えるように可視化させてって僕から頼んだ」

 木漏れ日の中で銀砂をまいたような光を放つ鱗を、ラフマンは見つめる。

「川の神の、鱗⋯⋯?」

 非現実的な光景を前に思考がまとまらなくなる中、恐る恐るラフマンは鱗に触れた。指先がすり抜け、ノリの手のひらに当たる。

 思わず指を離し、ラフマンは弾かれるように一歩後退った。鱗は、本当に霊的な非物質のものなのだ。

「神⋯⋯神格級の精霊は、ただの精霊と違って、とてつもなく位が高く、波長も圧倒的に清い最高級の供物を捧げないと現れてくれないんだ」

 普段から神や精霊と関わっているのだろう、ノリの言葉は知り合いのことを語るように淡々としていた。

 ラフマンはウタリを見た。

「ウタリが、供物⋯⋯」

 ご飯、やはり供物のことだったのだ。

 とてつもなく位の高く、波長も圧倒的に高い清い供物が、ウタリ。魔女か否かと揺れる心ではまだ、にわかに信じられなかった。揺らぐラフマンの胸中を見抜いたように、ノリは断言する。

「そう。ウタリちゃんはヴィシュヌに選ばれ、捧げられた生贄。ヴィシュヌによって不死身にされ、血は治癒の力を持った。元々は、ただの子供だったんだ」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走り、ラフマンは息を吸うのも忘れて唖然と立ち尽くす。

 不死身であるのも、血に治癒の力があるのも、ウタリが魔女である証拠だと今まで思い込んでいた。

 だが、ノリが川の神の鱗を見せたことにより、ウタリが魔女ではなく、ヴィシュヌに選ばれし聖なる供物であることが証明された。

 確証を見せられたことにより、もう疑いの余地は完全になくなった。

 ひび割れていた恐怖の壁はとうとう崩れていき、足から力が抜けてラフマンはその場に崩れ落ちる。

 脳裏に、ウタリをおんぶしてジャングルを行軍した時の記憶が蘇る。

 色鮮やかな鳥を見た時。

 ──虹の鳥さん! 妖精かな?

 羽が降ってきた時。

 ──凄ーい! 花びらみたい!

 キノコを見た時。

 ──かぁいいキノコ! 見てラフマン!

 滝壺の周りの花と蝶を見た時。

 ──ねぇラフマン、あれ綺麗だよ?

 どこにでもいるごく普通の子供の反応を、ウタリは見せていた。

 おつかれおじさんの言葉も蘇る。

 ──あの子も君に肩車されてたろ。鳥さんとか、お猿さんとか、キノコに凄く興味津々だったよな。見る世界の全てが楽しくて、笑ってたんだろうなぁ。俺の娘にそっくりだ。

 両手をぎゅっと握り締め、ラフマンは唇を噛みながら俯く。

 ウタリは──ただの子供だったのだ。

 後悔の念が鋭い刃物のごとく胸を突き刺し、ラフマンは地面に爪を立てた。爪が剥がれそうなほど、強く深く土に食い込ませる。

「俺は⋯⋯なんてことを⋯⋯っ」

 自分は、こんな小さな子供が腹をこじ開けてられて泣き叫ぶのを無視し、銃剣で喉を突き刺してしまった。

 胸の奥が沁みるような痛みを伴って熱くなり、肩が震え出す。

「⋯⋯ウタリ」

 名前を呼んでも、嫌悪感は込み上げてこなかった。

「なぁに?」

 ウタリがラフマンのそばに近づいてくる。ラフマンはウタリを見上げた。猫の目のように、まんまるであどけない赤い瞳がラフマンを見つめている。

 魔女という偏見が完全に払拭された今、その赤い瞳が眼窩に埋め込まれた輝く宝石のように見えた。

 ラフマンはウタリに向かって、深々と頭を下げる。

「──すまなかった」

 沈黙が訪れた後、ウタリの無邪気な声が降ってきた。

「大丈夫だよ」

 ラフマンは顔を上げる。途端、ウタリの小さな身体がラフマンの胸に飛び込んできた。首に細い両腕がふんわりと巻き付く。
 子供特有の、瑞々しくて柔らかい肌の感触があった。

「ラフマン⋯⋯」

 ウタリは上目遣いにラフマンを見つめてきて、にっこりと微笑む。

「──ウタリとなかなおり、しよう」

 目の奥が熱くなり、ラフマンの目から一粒の涙が零れ落ちる。

(俺はお前を、傷つけたのに)

 泣き叫ぶウタリを無視した。怒り任せに首を突き刺した。到底許せないはずなのに、なぜ仲直りしようと言えるのか。

「俺に怒ってないのか?」  

 ウタリは瞼を瞬かせて首を傾げる。

「へ?」

「俺はカサカサになったお前を無視したし、首も突き刺した」

 ウタリは何かを考えるように、天を仰ぐ。

「⋯⋯うーん? 確かに無視された時は悲しかった。首刺されたのも怖かった。でもね⋯⋯ラフマンが泣いて謝ってくれたから、ウタリ、もうラフマン怖くないよ」

 ウタリは再びラフマンを抱きしめた。今度はすがりつくように、ぎゅっと。

「ラフマン。また一緒に、ジャングルを探検しようね」
 
 ラフマンはウタリの小さな背中をそっと抱き締めた。

 ──あの子は、確かに魔女のような不思議な力を持ってる。でも中身は──ただの、幼い子供なのかもしれないな。人を助けたいと思って自らの血を捧げる、心優しい女の子なんだろう。ラフマン二等兵。あの子をよろしく頼む。あの子は我が隊の天使だ。

 記憶の中のおつかれおじさんに、ラフマンは返事をする。

(わかったよ、おつかれおじさん)

 ラフマンはウタリの背中を抱きしめ、目を閉じて決意する。

(ウタリを、俺が守ってやらないと)

 今度こそは──

 おんぶして、と頼まれたらおんぶしてやろう。

 遊んで、と頼まれたら遊んでやろう。

 怖い、と言っていたら優しく抱きしめて背中を擦ってやろう。

 戦場というこの地獄から、ウタリを守ってやろう。

 ラフマンたちを静かに見守っていたノリが言った。

「ラフマン二等兵、誤解が解けて本当によかった」

 彼はわざわざ川の神を呼び出してまで、ウタリへの誤解を払拭しようとしてくれたのだ。

「ノリ一等兵殿のおかげです」

 ラフマンとノリは、お互い微笑みあった。

「それにしても⋯⋯」

 ラフマンは笑みを消し、微かに表情を歪ませる。

 生来より信じ崇めてきた島の護り神が、幼子にこんな酷い仕打ちをしたことに、胸には怒りの焼け付くような熱が灯っていた。尊敬の念を抱いていた人物が実はとんでもない極悪人だった時のような、凄まじく裏切られた気分だった。

「ヴィシュヌ様が、なぜそんなことを⋯⋯」

 ノリは苦笑い混じりに言った。

「神ってね、ほんととんでもねぇことするんだわ。神にとって人間なんてアリ一匹ぐらいのもんでさ、可哀想とかそんなの想像もできないの。だから平気で不死身とかにできちゃう。ラフマンだって地面を歩き回るアリの気持ちわからないし、想像できないでしょ? それと一緒だよ」

 ラフマンは唇を噛んだ。

 ノリの口調はあまりにも軽かった。だがそれだけに、神に人間の理屈が通じないという恐ろしい現実を思い知らされた気がした。

「それにしても、なぜヴィシュヌ様はウタリを生贄に選んだのです」

 ウタリがラフマンから離れ、怒ったように頬を膨らませて、地団駄を踏む。

「選んだ? 違うわ! ウタリはヴィシュヌの怒りを鎮めるために村人たちに捧げられたのよ!」

 ノリは首を横に振る。

「それは村人たちの勘違いだよ。──ウタリちゃんはヴィシュヌに選ばれ、必然的に生贄として捧げられた。最初から、決まっていた運命だったんだ」

「なんでノリにわかるのよ!」

 ノリは意地悪げにくすりと笑う。

「それは、秘密」

「ノリのいじわる!」

 ガサガサと茂みの揺れる音がして、ラフマンは振り返った。茂み越しから銀髪赤目の青年が、こちらを見ていた。

(クソメガネ⋯⋯)

 胃を切開して直接肉を詰めれば良いという彼の発言を思い出し、鳥肌が立つ。

 ファディルはいつもの棒読みで呼んだ。

「ノリ、行軍開始します。急いでください」

 ノリは明るく弾んだ声で返した。

「うん、今行くよ!」

 まるで友人と話す時のような物言いに、ラフマンは違和感を覚える。

「行こう、ラフマン二等兵」

 ラフマンとウタリはノリの後に続いた。

 先頭を行くノリの背を見つめながら、ラフマンはずっと聞き忘れていたことを思い出し、訊いた。

「ノリ一等兵殿、あなたは何者です」

「⋯⋯僕ね、巫女の一族の出身なんだ」

 散々不思議なものを見せられた今、驚きはなかった。

「巫女の一族、ですか」

 ラフマンが応じると、ノリは苦情した。

「うん。僕には双子の姉がいてね。本来、巫女の力って女にしか継がれないんだけど、双子だったせいか、僕にも霊力が流れ込んじゃったみたいで」

「それはまた、不思議なことですな」

 ノリは淋しげに言った。

「でもね、僕は巫女にはなれなかった。男が巫女になるなんて、伝統に反するって言われて、追放されたんだ」

 ひでえ話だ、とラフマンは思った。力があるのに、伝統というだけで門前払いとは──。

「なんとも理不尽なことで」

「うーん⋯⋯まあ、あの人たちにとっては、そうせざるを得なかったのかもね」

 ノリは少し困ったように笑った。

「精霊とか、神とか、僕たちが扱う見えない者たちってさ、扱いを少しでも間違えると、ものすごく怖い祟り方をするんだよ。だから、伝統に反するって判断したのも⋯⋯うん、ある意味では正しかったのかも」

 ノリは苦笑いして、続ける。

「巫女、ならぬ霊能力者の僕は街で占い師やら失せ物探しやら生業をやってたけど、全然儲からなくて途方にくれてて。ある日、砲兵連隊長がたまたま僕のところに来て、失せ物探しを頼んできた。

 後日、見事的中したって大喜びでまた来てさ。で、いきなり軍で索敵能力を鍛えないか?って誘われて。飯にも金にも困っていたから、無償で寝食を与えてもらえるならいいやって軽い気持ちで付いていった。

 で、霊能力で索敵演習したら、一発採用されて観測兵になったんだ。計算とか、ほんっと苦手なのにね。観測兵になっていいのかなって、最初はびっくりしたよ。周りは難解な計算ができる頭のいい子ばっかりで、僕だけ全くできなくて肩身狭かった」

「霊能力で索敵する観測兵とは⋯⋯物語のような話ですな」

「とはいえ、まともに計算できないとやっぱり足手まといにはなるよ。僕を邪魔者みたいに思う念、常に色んな奴から飛ばされてたし」

 苦笑交じりに、ノリはぽつりと続けた。

「僕みたいな奴、確実にクビ案件なのに。それでも軍に残れたのは、運がよかったから。たまたま班長の補佐になれた。それだけ。なぜ僕が補佐なのか、自分でもよくわからないけどね」

 失礼ながら、確かによくわからんとラフマンは思ってしまった。ファディルは合理主義者で、作戦成功のためには手段を選ばない冷血野郎だ。そんな彼が、落ちこぼれのノリを補佐に?

 そこでふと、ラフマンはノリが「霊能力で索敵した」という話を思い出した。

「霊能力で索敵とは、どうやってするのですか?」

「えっと⋯⋯目をつむって、半径三百メートル三百六十度の範囲に、敵が放つ念を感じ取る感じ」

 何を言っているんだ、と最初は思った。だが次の瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 ──目視も音もなく、ただ感じ取るだけで三百メートル先の敵の居場所を探る?

 そんな芸当、できる人間など世界中どこを探してもいないはずだ。

 ファディルがノリを「使える」と判断した理由が、腑に落ちた。あの合理主義者が重用するのも、道理だ。納得だ。いや、納得しかない。

(ぜんっ、ぜん落ちこぼれじゃないじゃねぇか。畜生っ)

 勝手にノリを落ちこぼれ仲間だと期待し、同情した自分が馬鹿だった。

 もう一つ、気になっていたことをラフマンは思い出した。

「あと、ノリ一等兵殿はなぜ班長に対してタメ口なのですか?」

「砲兵隊と観測班のローカルルールだからさ。敬語を廃してより早く、正確に報告し合えるためにって。まぁ僕は、それを建前だと思っているけどね」

「建前?」

 ラフマンが訊き返すと、ノリは少しだけ笑って、続けた。

「あいつ、報告を円滑にするためのローカルルールって言ってるけど、本当はさ――」

 一拍置いてから、ノリは言った。

「擬似友人ごっこをしてるんじゃないかって、僕は思ってる」

「擬似⋯⋯友人ごっこ?」

「あいつ、銀髪赤目の奇妙な姿でしょ? そのせいで昔から『気味が悪い』だの『化け物』だのっていじめられてきたらしいよ。ずっと孤独だったんだろうね。だから友達というものに憧れてて、部下にタメ口で接するよう強要しているんじゃないかなって。⋯⋯見え見えなんだよ、『部下で擬似友達ごっこ』してるの」

「はぁ⋯⋯なるほど」

 そう言われても、幼い子供の胃を切開して肉を詰めろという冷血野郎と、ノリの言う繊細な人物像がどうも釣り合わなかった。

「持てる者に生まれた名家のボンボンのくせに、人間関係には全く恵まれなかった」

「名家のボンボン?」

「班長の親父さん、陸軍中将なんだ」

 ラフマンは固唾を呑む。階級を意識する兵隊の本能が、『将官』という最高位に畏怖し驚愕していた。将官の息子というならば、貴族など上流階級出身だろう。ラフマンとは住む世界が違いすぎる。

「あいつ、エリート家の生まれなんですね」

「うん。陸軍大学飛び級入学を突っぱねたことで親父の逆鱗に触れて、勘当されたらしいよ。兄のフェディル少佐とも昔から犬猿の仲らしい。お母さんには小さい頃から無視されてたんだって。班長、家族みんなから門前払いされて、今は手切れ金として与えられた小さな屋敷に使用人三人と暮らしている。次男だから後を継ぐ必要もないし、分家は土地管理や財産配分が面倒だから、厄介者として実家から追い出されたんだ。⋯⋯僕と班長は、似ている」

 ノリと同じ境遇だ、とラフマンは思う。

 ノリは可笑しそうにくすくす笑う。

「僕、霊能力者だから見えるんだ。班長の魂の構造。分厚い鉄壁で、ガッチガチに心を覆っているのが。あれはね、きっと、自分で自分を守るための壁なんだよ。心に何重にも巻いた鉄の殻。その殻の名前が、きっと『合理的』なんだと思う」

 その分厚い鉄壁が、ファディルがよく口にする「合理的」の正体。

 すぐそばにいるのに、分厚い鉄壁に阻まれて触れたくても触れられない。そんな寂しさが、ノリの声色に滲んでいた。

 ◆ ◆ ◆

 
 ウタリはラフマンの首に両腕を回してしがみつきながら、がっしりとした大きな背中に顔を埋めていた。数日一緒にいたせいか、ウンチ臭さはもう気にならなくなって、ラフマンの体温だけが伝わってくる。

 ラフマンの背中はお日様の光より温かくて、頬がほんのり温まる気がした。

(ウタリとラフマン、おともだち)

 村を離れてからずっと、友達がいなかった。時々小屋にウタリと同じ年くらいの子供が来ることはあったが、一緒に遊んでくれなかった。

 これからは、ラフマンがウタリと遊んでくれる。次に休憩したら、一緒にお絵描きしようかな。それともお花で冠や指輪を作ろうかな、とウタリはわくわくした。

 頬を背に当てながら、ウタリはジャングルの中をぼーっと見つめていた。刃物のように先が鋭く尖った枝が、ウタリの目と鼻の先を横切っていく。それが一瞬刃物のように見えて、ウタリの背中を冷たい水が伝っていくような悪寒が走る。

「ひっ⋯⋯」

 ラフマンが肩越しから訊いた。

「どうした、ウタリ?」

「枝がね、刃物に見えたの」

「枝が? 見間違えだ」

 ラフマンは笑ってそう言ったが、ウタリの背筋のぞくぞくは止まらない。

 こんなの、気のせいじゃない。

 ウタリの予感は当たった。枝が目に入る度に、先の尖ったところが包丁や剣の矛先と被って見えた。まるで刃物が森の中にたくさん生えているような──

 ぞくぞくは全身に広がっていき、毛穴が寒気を伴ってぞわぁっと開いていく。

(なに、これ。森の中に包丁とか剣がいっぱいある)

 ウタリはラフマンの背中に顔を埋め、森の中にひしめく刃物の群れから目を背けた。手が激しく震えて、ラフマンからおっこちそうになる。

(怖い、怖いよ)

 急に葉擦れの響く音が、ぐわんぐわんと歪んで聞こえ出す。

「ウタリ? どうした、ウタリ?」

 ラフマンが訊いてきたけれど、声が遠くから響くように聞こえる。身体がぴったりくっつくほどそばにいるのに、ラフマンが森の向こうから話しかけているような。

 ウタリは声も出せないほどの恐怖感に襲われて答えられなかった。

 
 ◆ ◆ ◆

 ラフマンはウタリを膝上で寝かせていた。ウタリは普通の人間と同じく、夜になると眠るらしい。小さく上下する腹をトントンと叩きながら、ラフマンは大欠伸した。

 十分程度の小休止で少しでも眠りたいのに、ウタリから目を離せられない。朦朧とする意識をなんとか理性で奮い立たせ、ラフマンは倒れそうになる頭を持ち上げる。

 ウタリがウッ、ウッと赤ん坊が泣く前のような呻き声を発した。 

 茂みの中から息を呑む音と溜め息、舌打ちが一斉に聞こえ、張り詰めた空気が満ちる。彼らがウタリの声に反応し、恐怖し苛立つのが、顔を見ずともひりつくような空気で理解できた。

 ああ、まただとラフマンは警戒し、ウタリの口を押さえる。だがその制止を振り切るように、手のひら越しからウタリの場違いなほど大きな泣き声が轟いた。

「ああぁっ⋯⋯うわぁぁぁんっ!」

 静寂を裂くような大声を上げ、両足で見えない何かを蹴飛ばすように、ウタリは暴れ出した。

 ラフマンの膝上で両足をばたつかせて泣きじゃくるウタリを、優しい声で慰める。

「ウタリ、ウタリ、ほら、大丈夫だから泣くなって」 

「おうち帰りたいっ⋯⋯帰るっ⋯⋯帰るぅぅ⋯⋯」

 ラフマンはウタリの口を塞ぎながら、周囲を見渡す。茂みの中にしゃがみ込んで休む島兵たちの視線が、いくつかこちらに向けられているのを肌で感じた。

 罪悪感が胸を重く押し潰していく。

 うるせぇ、そいつ泣き止ませろという無言の圧力がラフマンに集中していた。

 わかっている、とラフマンは苛立ちに歯を軋ませる。

 泣き止ませたくても、ウタリは一向に泣き止まなかった。

 ウタリは眠りについたと思いきや、火が付いたかのごとく突発的に泣き出しては暴れるを繰り返す。森に泣き声が反響する度、ぞわりと怖気が背筋を這った。今の声、集音マイクに拾われなかっただろうか。茂みの中に回線を探しては、無いことに安堵する。

 島兵たちの間を通りながら、ヴァレンスが寄ってきた。

「ヴァレンス衛生隊長殿⋯⋯」

 ヴァレンスは沈鬱な表情でウタリを見下ろしながら、呟く。

「心的外傷による感情発作だな」

「心的外傷?」

「極度の恐怖体験をしたことで、心に深い傷を負い、フラッシュバックなどで恐怖を再体験する。ウタリちゃんも、再体験により突発的に泣き出しているんだろう」

「普通に泣いているのとは違うのですか?」

「泣きたくないのに、恐怖をぶり返して泣き出してしまうんだ」

「しかし、カサカサが治った直後は突発的に泣き出すことなんてなかったですよ? 元気に逃げていましたよね」

「防衛本能で『逃げだす』という回避行動を取り、再体験による発作はその後から少しずつ出てくる。今、再体験の段階に入ったんだろう。恐怖を処理しきれなかった記憶が、時間差で心を侵食している」

 大粒の涙を流しながらわんわん泣くウタリを、ラフマンは見おろす。

「かゆい、かゆい、かゆいかゆいかゆいかゆいっ! いや、やめてっ、いや! いや! いやぁぁぁっ!」

 かゆいかゆいと連呼し、ウタリは両手で必死に搔きくる。身体はふっくらしていて瑞々しいのに、まるで全身に出来物ができて我慢できないと言わんばかりの様子だった。

 今、強制的に採血された時の恐怖を再体験し、発作を起こしているのだ。

 声が裏返り、途切れ途切れに「やめて、やめて」と呟いている。

 ヴァレンスは項垂れた。

「私のせいだ。私が痒がるウタリちゃんの腹を無理矢理引き裂き、血を抜いたせいで彼女の心に深い傷を負わせてしまった」

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