3-8 泣き止ませ対策

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 ぜぇぜぇと、喉の奥からかすれた息が漏れる。息をしているだけで、肺の中が潰れていくようだった。  

 頭の中が渦巻きのようにかき乱されて、何も考えられない。

 全身が悪寒とともにガクガクと激しく震える。空気が冷たいのか、身体の中から凍ってるのか、もうわからない。

 カチカチ鳴る歯の隙間から、ウタリは必死にラフマンを呼ぶ。 

「らひゅ⋯⋯ま⋯⋯」

 島兵たちに包丁で目を貫かれてから、突然森が真っ暗闇になってしまった。木も茂みも、深い闇に閉ざされてしまった。

 目を開けているのか閉じているのかさえ分からない。ただ、真っ暗だった。世界が、丸ごと夜に呑まれたように。

  木も、茂みも、空も、何もない。全く見えない。

 闇の中から島兵たちの笑い声が響く。彼らの姿は闇に溶け込み全く見えないのに、声はすぐそばから聞こえる。

「ら、まん⋯⋯」

 口を手で塞がれ、指の隙間から声が漏れる。助けを求めても、口から出てくるのは言葉にならない息だけ。

 ラフマンの顔が見たい。声が聞きたい。けど、何も聞こえない。

「ウタリちゃん、痛くないんだね。いい子だねぇ、大人しくしててね」

 島兵の嬉しそうなその声の裏に、ねっとりとした愉快さが滲んでいた。

 頬に硬くて鋭いものが触れ、擦れる感触がする。耳のそばで、くちゅくちゅと何かが切れるような生々しい音がした。風がそこを撫でたとき、ぞっとするほど冷たくて、そこがもう自分の一部じゃないような気がした。

 頬も、お腹も、頭も、いろんなところがスースーして寒い。

 目の前が見えなくても、肌を舐める鋭い食感と寒さでわかる。

 皮膚を、包丁でゆっくり削がれ、めくれ上げられるのを──。

「ううぅ⋯⋯」

 声を出そうとした。誰かを呼びたかった。でもその声も押し込められたように、息しか出なかった。

 やがて、虫が皮膚の中を這っているような、ざわざわしたかゆみが両手の指先から広がってきた。

「あぁ⋯⋯っ」

 脳裏にウタリを囲うお医者さんたちの顔が蘇り、全身を小さな虫が這いずり回るようなあのおぞましい感覚が、また来た。

 身体が勝手に、びくんっと大きく仰け反る。

「お、カサカサになってきたねぇ」

「かひゅい、か、ひゅ⋯⋯っ」

 我慢できず指を擦り合わせると、皮膚の内側で、何かが蠢いているような、じっとりしたかゆみが走る。それでも指を止めることができなかった。

 掻くたびにもっともっとかゆくなって、骨の近くまで染みてくるような気がした。掻いても掻いても追いつかず、血がにじむまで爪を立てる。

「ひ、いいいぃぃぃ⋯⋯っ」

「かゆいの? 擦ってあげるね」

 島兵が包丁をウタリの手に当ててきた。パリッと乾いたものが避けるような音とともに、薄皮の下から鈍いかゆみがじわじわと滲んできた。

 包丁でガリガリっと乾いた肌を激しく何度も擦られ、 肌の奥から爆発するようなかゆみが吹き上げる。

 いや、それは「かゆい」なんてものじゃない。「爆ぜる」だ。皮膚の下で何かが破裂するような、猛烈なかゆみが手を走る。

 ウタリは身体を捻り、顔を歪ませて絶叫する。

「うぅ〜っ!」

「叫んでも聞こえないよ。はい、残念」

 押さえつけられた手の中でウタリは狂ったように絶叫し、四肢をばたつかせる。たすけて、たすけて。でも唇を塞がれて、悲鳴はくぐもった声になるだけだった。

 ウタリが泣き叫ぶ中、島兵たちの楽しげなゲラゲラ笑いが響く。

 両足もカサカサ痒くなってきて、そこも包丁でガリガリといっぱい擦られる。逃げるように足をばたつかせると、押さえつけられてまた包丁で乾いた足をガリガリされた。

 何度も、何度も──。

 ウタリは反射的に身体を仰け反らせ、へこませを繰り返しながら、四肢に走る猛烈なかゆみ地獄に身を委ねるしか無かった。

「────飽きた」

 ガリガリしていた島兵の一人がつまらなさそうに呟き、包丁を離した。

「そろそろやめよう。カサカサ止まらなくなったら俺達処刑だ」

「こいつ捨てていこう」

「はぁ? 何いってんだ」

「俺達はどうせこの森の中で野垂れ死ぬ。カイラス岳に付く前にさ」

 島兵たちが去っていく足音が聞こえる。

 ぜぇ、ぜぇ──掠れた呼吸が繰り返される喉を必死に動かし、ウタリは見えない暗闇に手を伸ばして助けを求める。

「らふ、まん⋯⋯」

 伸ばされた指の間を、風が通り過ぎてゆく。

「き、て⋯⋯らふ、まん⋯⋯」

 がさがさ、とそばの草むらが動いた。ラフマンが来てくれたんだ、とウタリは濡れた頬を歪ませて微笑み、音のしたほうへ手を伸ばす。

「ラフマン、ラフマン⋯⋯来てくれたのね」

「私です」

 反射的に身体が震え上がり、ウタリはヒッと声にならない悲鳴を上げた。

「ファ、ディル⋯⋯」

「今からあなたの身体を治します」

 ウタリは地べたに座り込んだまま後退り、顔を横に振って拒絶する。

 ファディルが包丁を構え、ウタリに矛先を向けている姿が暗闇越しに浮かんだ。刺される。喉を貫かれて、もっともっとカサカサにされてしまう。

「いやっ、来ないで⋯⋯っ!」

「大丈夫、大人しくしてください」

 突然、お腹の中に柔らかくてねっとりしたものを捩じ込まれた。異物の入り込む圧迫感が胃をせり上がり、ウタリは空嘔吐する。

「げぇっ⋯⋯何、を⋯⋯」

「あなたのお肉を入れました。食べさせるより吸収効率が高いです。我慢してください」

「ウタリの、に、く⋯⋯?」

 どれぐらい経っただろうか。風に当たってスースーする部分の皮膚が、じわじわ動き出すのを感じた。ゆっくりゆっくり、皮膚が虫のように蠢きながら立てる生々しい音を、ウタリは荒い呼吸とともに聞いていた。

 乾燥して骨と皮がひっついていた手足の指のかゆみが収まっていき、瑞々しい何かが指周りをふんわりと包みこんでいく感触を覚えた。

「完治、約二十五分四三。作戦遂行に十分な時間ですね」

 指を指で擦るとかゆみは発せられず、ぷっくりした肌触りにウタリは息を呑む。

(カサカサ、治ってる?)

 やがて視界も、真っ暗に塗り潰された世界に絵が描かれていくように色と形を取り戻していく。木漏れ日の降り注ぐ鬱蒼とした緑のジャングル、その背景に立つドロドロに汚れた王子様のような姿の銀髪赤目が、すぐ目の前にいた。

「──っ!!」

 人形のように整ったその顔を見た途端、腹に氷を埋められたような寒気が走った。

 銀髪越しの赤い虚ろな瞳が、ウタリの目を覗き込んでいる。ぽっかり開いた瞳孔に意識を吸い込まれそうになり、ウタリは呆然としながら瞳を見つめた。

「元に戻りましたね」

 ファディルの棒読みが空っぽの頭を突き動かし、ウタリは自分の両手を見た。全ての指が元のふっくらした状態に戻っていた。

「戻ってる⋯⋯何で?」

 ファディルは木の棒で、地面に絵を描いた。丸の中に、いっぱいギザギザを描いていく。

「何それ?」

「割れたお皿の欠片を集めたら、元に戻りますよね?」

 ギザギザは、割れたお皿の欠片らしい。ギザギザしていても、ちゃんとお皿の形になっている。ウタリは頷いた。

「それと同じです。あなたの身体は、千切れたお肉を元に戻せば元通りになるのです」

 お話を聞いちゃだめ、ともう一人のウタリの声が頭の中に響いて、ウタリは警戒心を募らせて訊いた。

「何をしに来たの? またウタリをいじめるの?」

「あなたを探しに来たのです」

「嘘⋯⋯っ」

 ひっく、ひっくと喉が勝手に鳴り出す。ああ、まただ。また泣きたくないのに泣いちゃう。止められない。ひっく、ひっく──その時、ファディルがそっとウタリの口を覆って、囁くように言った。

「静かに。鬼が来ます」

 鬼、という言葉で勝手に背筋がびくんっと真っ直ぐになった。

「鬼? 海の向こうから来て、村人たちの宝物を奪っていくあの悪い鬼?」

「はい。最初に出会った時、あなたが言っていた鬼のことです。あなたの泣き声は、鬼を呼びます。どうか泣き止んでください」

 冷や汗が全身の毛穴から垂れ落ちる感触を感じながら、ウタリは喉奥から込み上げる泣き声をぐっと堪える。

(何で? 何でウタリ泣いたら、鬼が来るの?)

 ひっくひっくはどんどん波が大きくなるように激しくなっていって、ウタリはファディルの手の中で声にならない泣き声を上げた。

 うー、うー! と泣き声はくぐもる。ファディルはウタリの背中を無言で撫でながら「ゆっくり、深呼吸してください」と落ち着かせるように言った。

 よくわからないけど、泣いたら鬼が来ちゃうらしい。ウタリは言われた通りに深呼吸し、喉の震えを必死に引っ込めようとする。

 いくらかの静寂が流れて、ひっくひっくが収まった。

「落ち着きましたか」

「鬼、いない?」

「はい、大丈夫です」

 ファディルは溜め息混じりに続けた。

「それにしても、驚きですね。あなたぐらいの年なら、フィクションとノンフィクションの分別ぐらいできているはずですが⋯⋯」

「へくそんとのんぺくそん?」

「いえ、何でもありません」

 ファディルはそっとウタリの口から手を放した。胸の奥に溜まっていた空気が一気に出てきて、ウタリはむせ返る。

「あなたの住んでいた村に、鬼が襲ってきたことはありますか?」

 ファディルにいきなりそう質問されて戸惑いつつも、ウタリは答える。

「えっとね、ウタリはね、前に村に住んでいたけど、今はあの小屋に一人で住んでた。でもね、怪我や病気をした時に時々来る村人たちは、外には鬼がいるよ、だから小屋から出ちゃいけないよってウタリに繰り返し言っていたの」

「なぜあの小屋に一人で? お父さんとお母さんは?」

 どれぐらい昔のことかわからない、おぼろげな記憶の断片をウタリは思い出す。

 ──ウタリ、ヴィシュヌ様の祠、トンカチで壊してみて。

 思い浮かぶのは、いじわるな笑みを浮かべた村人の少年。彼からトンカチを渡されて、ウタリは泣きながら首を横に振る。

 ──そんなことしたら、ヴィシュヌ様が怒るよ?

 少年の隣にいるもう一人の気の弱そうな少年が、「やめなよ」と彼を止める。
だがトンカチを渡した少年はニヤニヤと笑って拒否した。

 ──早くやれよ、ウタリ。やらなかったら俺の仲間連れてきてお前んちの金集るぞ?

 彼は村のガキ大将だった。言うことを聞かなかったら金を集られる。脅されて、ウタリは泣く泣く祠をトンカチで壊した。

 翌日、両親と少年二人は不慮の事故で死に、これをヴィシュヌの祟りと恐れた村人たちは、ウタリが祠を壊した犯人と決めつけて生贄に捧げた。

「ウタリが村の悪い子たちに脅されてヴィシュヌの祠をトンカチで壊しちゃって、お父さんとお母さん、悪い子たちは呪われて死んじゃった。ウタリはね、怒ったヴィシュヌを大人しくさせるために、イケニエっていうご飯として小屋に閉じ込められたの」

 ファディルは何か考え事をするように、ぶつぶつと独り言を呟く。

「つまり⋯⋯祠を壊した罰として、両親と医薬品を脅した子供たちは呪いと見せかけて村人に殺害された。医薬品は生贄として小屋に閉じ込められ、逃げ出さないために村人は「外には鬼がいる」と童話を事実として吹き込んだ、というわけですね。医薬品は童話を外の世界で置きている現実ととらえた。それなら納得がいきます」

「ん? 何?」

「いえ、何でもありません。⋯⋯使えますね、これは」

 さっきからウタリのわからないことばかり言って、余計怖い気持ちが膨れ上がってくる。

 ファディルは質問を続けた。

「村人は、あなたの血で怪我や病を治しに来たのですね?」

「うん。治したら、みんな褒めてくれるの。それでね、お礼にね、プレゼントもらえるの。絵本とか、ぬいぐるみとか。だからお父さんとお母さんがいなくなっても、村人たちがお世話してくれてウタリはひとりぼっちでも頑張れたの」

 小屋にあったプレゼントを思い出して、胸の締め付けられるようなあの嫌な苦しさに襲われた。村人たちに会えなくて寂しくて泣く時も、こんな感じになっていた。ウタリはまた泣きそうになったけれど、鬼が来たら大変だから唇をぎゅっと固く結ぶ。

 ファディルはウタリの頭上を見上げて呟く。

「依存性、精神不安定性あり⋯⋯」

 またよくわからないこと言ってると思いつつ、ウタリは続ける。

「でもね、村人たちも動物たちも、たまにしか来てくれなくて、寂しいの。でも、絵本読んだり、ぬいぐるみ抱っこしたら、なんかね、ほっとするの。プレゼントで遊んでる時は、寂しいの忘れられるの」

「両親喪失による愛着対象の代替え⋯⋯」

「小屋にあったプレゼントね、全部なくなっちゃった。ウタリの大事なものだったのに⋯⋯」

 ウタリは足元の血の海に浮いている、ぽっきり折れたお絵描きペンを見下ろした。

 ラフマンが、ちゃんとお絵描きできるようにと渡してくれたプレゼント。このお絵描きペンがラフマンと仲良しになれた印のように思えていたのに、壊れてぷっつり途切れてしまったような気がして、ウタリは折れた部分を必死にくっつけようとした。

 何度くっつけても、繋がらない。ラフマンとも二度と繋がれない気がしてきて焦り、苛立ちながら、ウタリは羽根ペンに懇願する。

「お願い、くっついてよ⋯⋯」

 結局諦めて、ウタリは壊れたままお願いペンを胸に当てた。壊れて生き返らない死骸を抱きしめるように。

 お絵描きペンを渡してくれたラフマンの笑顔が、闇の奥へ遠ざかっていく気がした。

 壊れたお絵描きペンを見たら、きっとラフマンは怒る。そしてもう絶対、おんぶしてくれない。

 怖いのと寂しいのが一緒に胸の中でごちゃごちゃ混じって、また泣きそうになるような衝動が喉奥からせり上がる。

 もう、仲良くできないのかな。
 せっかく仲直りできたのに。

「ラフマンからもらった羽根ペンも、壊れちゃった。せっかくくれたのに、ウタリがうまく島兵さんのお顔の絵を描けなかったせいで、壊れちゃったの」

 自分が絵を上手く描けていれば、こんなことにならなかったのに。

 ひっく、ひっくと泣きそうになるのを我慢しながら、ウタリはラフマンに謝るように続けた。

「ウタリのせいで⋯⋯ラフマンのプレゼント壊れちゃった⋯⋯せっかく仲直りできたのに⋯⋯ウタリが、うまくお絵描きできなかったから⋯⋯ラフマン、ウタリのこと嫌いになるよね⋯⋯プレゼント捨てたって、ウタリは酷い奴だって⋯⋯」

「依存性粒子八十七パーセント、不安粒子九十五パーセント上昇。やはり、村人たちによる条件付きの承認が土台となっていますね。ラフマン二等兵は医薬品の安全基地というわけですか」

 ファディルが立ち上がった。

「では、同じ色の羽根を取ってまいります」

「えっ」

 彼は何かを探すようにぐるっと辺りを見渡した。

「いました」

 ファディルは茂みを掻き分けて、遠くへ去っていく。小さくなっていく背を目で追いかける。どこにいくのだろう。ファディルはかなり遠く離れた場所にある一本の木の前に立ち止まり、長い木の棒で枝を叩いていた。何で木をいじめているのだろう。

 しばらく枝を叩き続けたファディルは、落ちてきた何かを拾うように手を伸ばす。そしてウタリのところへ戻ってきた。

 ファディルはウタリの前にしゃがみこみ、握っていた手を開いてみせた。手のひらに、壊れたお絵描きペンと全く同じ黄色い羽根があり、ウタリは思わず前のめりになって声を弾ませる。

「羽根ペン! 色が一緒! 何で見つけられたの!?」

「ずっと遠くに同じ羽根を持つ鳥を見つけたのですよ」

 遠くにいたファディルが豆粒ぐらいにしか見えなかったのに、彼よりもっと小さい鳥をどうして見つけられたのか。

「目、凄くいいんだね」

「お月様の肌まではっきり見えますよ」

「ええっ!?」

 ファディルはそっとウタリの片手を掴み、手のひらに新しいお絵描きペンを乗せた。木漏れ日が羽根に触れると、黄色いふわふわにきらりと光が走る。

 新しいお絵描きペンの柔らかい感触を感じていると、ぐっしゃり潰された箱が元に戻るように胸が軽くなる。

 お絵描きペンをきゅっと握り締めると、胸がほわっとお日様のように温かくなった。ラフマンに羽根ペンをもらった時と一緒だ。

「ありがとう、ファディル」

「ラフマンは、お絵描きペンが壊れたと知ったらとてもがっかりするでしょう。せっかくあげたのに、なんてことをするのだと。でも代わりのこれがあれば、ラフマンにお絵描きペンが壊れたと言わなくて済みます」
  
 ファディルもウタリと同じことを思っていたらしい。ということはやっぱり、お絵描きペンが壊れたことがラフマンにバレたら、絶対嫌われてしまう。

「そうだね。バレたらラフマン、怒るよね」

「ただし、一つだけ条件があります」

「何?」

 ファディルはお絵描きペンを指差した。

「あなたが泣いたら、お絵描きペンは没収です。泣かなければ、お絵描きペンはずっとあなたのものです」

「え⋯⋯」

 新しいお絵描きペン、プレゼントしてくれるわけじゃないの? と急に不安がぞわりと身体を包み込む。

「あなたが泣けば鬼が来ます。鬼は私やラフマンたちを襲い、食べてしまいます。あなたと遊んでくれた『おつかれおじさん』も、鬼に食べられてしまいました」

 おつかれおじさん。ずっと忘れていたあの優しいおじさんの顔が、ぼんやりとした霧のような像からゆっくりゆっくり、はっきりとした形と色を取り戻していく。
 実感が湧かず、ウタリは唖然としながら訊いた。

「おつかれおじさん⋯⋯鬼に食べられちゃったの?」

「はい。あの泥沼にいた鬼たちに、食べられてしまったのです」

 ──君は、おたすけまじょさんだよ。

 小屋から連れて行かれて、ラフマンには冷たくされて、そんな時に優しく声をかけてくれて草花遊びに付き合ってくれた、鬼なのに優しくて温かったおつかれおじさん。
 彼が、食べられてしまった。頭で理解しようとしても、うまく呑み込めない。

「そんな⋯⋯おつかれおじさんが⋯⋯」

「おつかれおじさんだけではなく、多くの兵隊さんが鬼に食べられました。だから、決して泣いてはいけません。鬼が来ればみんな食べられてしまい、あなたも血を全部吸い取られてカサカサになってしまうでしょう。私が食べられれば、あなたの中にお肉を詰めることもできません。そうなれば、あなたの身体はカサカサのままずっとずっと治らないのですよ」

 ウタリは息を呑み、緊張に背筋を伸ばした。自分が泣いたら、ラフマンも、ファディルも、ノリもみんな食べられてしまうだなんて。しかもウタリはカサカサのまま、ずっと治らない。

「泣かなければ鬼は来ないですし、私やラフマン、みんなは生き延びることができます。そして羽根ペンが没収され、ラフマンに嫌われることもありません」

 ウタリは頭を抱えて呻いた。

 泣いたら鬼が来て、みんな食べられてしまう。

 泣いたらファディルに羽根ペンを没収されて、ラフマンに嫌われてしまう。

 二つの壁に板挟みされ、檻に閉じ込められて身動きが取れなくなる。

 ウタリだって泣きたくて泣いているわけじゃない。勝手に泣き声が口から飛び出てしまうのだ。それでも泣き声を必死に我慢して、抑え込まなければいけない。

 ファディルは選択を迫るように、ゆっくりと棒読みで言った。

「──泣くか、泣かないか。どちらがよろしいですか?」

 ファディルの問いかけが、檻に穴を開けて逃げ道を作る。ウタリに示された選択肢は、ただ一つ。

「──ウタリ、泣かない」

 もう、それしか無かった。

「よろしい。では⋯⋯」

 ファディルは腰に巻きつけた袋から何かを取り出した。小さい鉄の塊だ。カチンッと金属音がなると、塊からナイフが飛び出て、ウタリは飛び上がって後退り、木を背を押し付ける。

「ナイフが怖いですか?」

 ファディルの背後にある枝々がナイフと重なって、恐慌しながらウタリは首を横に振った。

「あ、あぁぁ⋯⋯っ」

 ファディルはゆっくりウタリの顔の前にナイフを近づけていく。

「いやっ、いやぁっ!」

「泣いたら、お絵描きペンは没収です。ラフマンはあなたを嫌いになり、二度と遊んでくれないし、おんぶもしてくれないでしょう」

 ウタリは手で口を覆った。泣いたらラフマンに嫌われる、と自分に言い聞かせて。

「唇をぎゅっと掴んで、泣き声が出てこないようにしてください」
 
 ひっく、ひっくと泣く前の発作を、ウタリは必死に口を押さえて抑え込んだ。

「それでよろしいです。そしてもう一つ、あなたにお願いがあります」

 口を押さえながらウタリはファディルを見た。

「今から私とヴァレンスというお医者さんとあなたをいじめた島兵たちに会いに行きましょう。三人に、あなたに言ってほしいことがあります」

 ヴァレンス──ウタリの腹を切り開いたあのお医者さんだと察し、ウーッと大きな叫び声が込み上げてきて閉じた口が開きそうになってしまう。

「今から教える私の言葉を、よく覚えてくださいね。決して、間違えてはいけません」

 ファディルが教えてくれた言葉を、ウタリは怖くて怖くてたまらなくてぐちゃぐちゃの頭で、必死に覚えた。

 ◆ ◆ ◆

(自己制御、完了)

 集音マイクの脅威となる医薬品の泣き声を止めるため、ファディルは医薬品が自ら泣き止むように仕掛けた。

(医薬品の依存対象を発見できなければ、失敗していました。偶然の幸いです)

 最初に、なぜフィクションとノンフィクションの区別ができていないのかと疑問に思い質問したところ、操作するのに最適な材料を二つ引き出すことができた。

 一つは、両親の喪失による、村人たちと彼らへの依存性、愛着対象化が土台となり、ラフマン二等兵からもらったお絵描きペンに対しても医薬品は強烈な依存を持っていたこと。この依存性と愛着対象をファディルは操作材料の一つとして利用し、泣いてお絵描きペンを没収されることにより、ラフマン二等兵に嫌われるリスクとして提示した。

 医薬品にとってラフマン二等兵に嫌われるリスクは、安全基地の完全喪失である。背負ってもらうことを拒否され歩行困難、島兵たちからの暴行から保護してもらえないなど様々なデメリットが生じ、死活問題である。

 もう一つは、医薬品が鬼という架空の存在とファディルたちが戦っていると完全に信じ切っていること。泣けば鬼が来てラフマン二等兵たちが食べられ、医薬品も回復することができず乾燥状態のままという二つ目のリスクを提示した。

 この二つのリスクに板挟みされた医薬品にとって、泣くことは絶対にしてはならない行為となり、医薬品は泣くことを自己抑制するようになる。

(これで撃退作戦実行の第一関門は突破できました)

 次の第二関門は、ヴァレンスと医薬品をいじめた島兵を呼び出し、医薬品に教え込んだ言葉を言わせることだ。

(第二関門で、部隊内に医薬品の暴行を許容する空気を作り出し、同族殺しの心理的抵抗を一気に払拭させなければなりません)

 医薬品が魔女であるという誤解が解けた今、島兵たちは奴をただの子供と認識するようになった。カラリヤ湿原で敵兵を処刑させた時のように、自分と同じ姿の人間に危害を加える心理的抵抗を払拭させる必要がある。

(人間は他者を暴行することには躊躇を覚えますが、周囲がそれを当然とする空気を作れば、躊躇は急速に霧散します。カラリヤ湿原で示した通り、集団心理の中で個の倫理は溶解する)

 今度は島兵たちの敵愾心ではなく、ヴァレンスの権威喪失を用いる。ヴァレンスは医薬品に心的外傷を与えたことにより、医薬品が傷つくのを過度に恐れているため、暴行の許容の妨げとなる。

 ヴァレンスは中尉だ。撃退作戦に反対されれば、ファディルはヴァレンスの命令を鵜呑みにするしかない。部隊内に暴行を許容する空気を作り、ヴァレンスの権威を下側から崩し無効化する工作をしなければならない。

 そして権威喪失したヴァレンスも空気に呑み込まれれば、上官も暴行を認めたという認識が島兵たちに伝わり、許容が生じる。
 
(積み上げた積み木は、下側の支えを引き抜けば脆く崩れ去ります。それと同じ形で、権威も崩壊する)

 その次の第三関門は──撃退作戦実行のために、アリフ中隊長から一時的に指揮権を移譲させること。奴は優柔不断だ。部隊内の空気を塗り替えれば、あっさり指揮権を渡すことだろう。

 全ては敵追撃部隊撃退の遂行のためだ。失敗は、許されない。

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