3-12 束の間の休息

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 翌朝──カイラス岳遊撃区を目指してアリフ隊は徒歩で進軍していた。強行軍やカラリヤ湿原の戦いで疲弊しきった彼らをなんとか歩かせるため、小休止五分、大休止一時間をこまめに挟んで進んでいく。

 勿論火は焚けないし、茂みでの野営は危険なのでできない。農村など、遮蔽物や舎営場所になる家屋、見晴らしのよい畑など万が一の奇襲に対応できる環境があれば、丸一日ゆっくり休める。家畜や野菜の収奪もでき、栄養もたっぷり取れる。

 だが村は付近になく、続くのは悪夢のように鬱蒼としたジャングルばかりだった──。

 ◆ ◆ ◆

「きゃははっ、ラフマン! そぉ〜れ!」

 ウタリにばしゃっと冷たい水をかけられ、ラフマンは顔を拭った。熱気で熱った身体を冷やすには丁度いい。

「はは⋯⋯冷たい水、気持ちいいな」

 大休止に入った午前七時。心地よいせせらぎを立てる小川に入ったラフマンは、ウタリと川遊びをしていた。

 熱帯にしては珍しく透明な川で、木漏れ日が差し込んで水面に光の粒をちらつかせていた。

 岸辺の方を見ると、島兵たちはそれぞれ濡れた靴を脱いで、木陰に腰を下ろしていた。誰もが黙って、ウタリとラフマンの川遊びを見つめていた。

 反対側の岸辺の茂みには、双眼鏡でこちらを『観測』するファディルと、その隣に座るノリの姿が。

 ノリはラフマンを見て困ったような顔をしてファディルを指差し、お手上げポーズをする。

 ファディルはきっとウタリを観測しているのだろう。

(あいつ、またウタリを見てる⋯⋯)

 行軍中、彼はウタリを双眼鏡で何度も監視していた。

 おそらくウタリの再生能力とか皮膚の作りなどを調べているのだろう。

 だとしても、幼女をジロジロ見る行為は変態のようで気持ち悪い。

「隙ありっ!」

 よそ見していたらウタリに水をかけられ、鼻と口に入ってラフマンはむせ返った。

「ぼーっとしてるからよ!」

「やったな、この野郎っ」

 ラフマンは、ウタリに水をかけ返しながら、不意に胸が熱くなるのを感じた。
 ──ああ、こんなふうに、昔も遊んだ。

 草の生えた川べりで、ユサが笑って水をかけてきた。

 ユサと遊んだときと同じ川の水の匂いが、ふわりと蘇る。

 ウタリとユサが時々被っていたのは、心のどこかで「ユサと似ている」と感じていたからかもしれない。だがそれを魔女という疑いが覆い隠して、意識させないようにしていたのだろう。

 ユサを失ってからずっと空洞のようになっていた心に、水が流れ込んで満たされていくような感覚を覚えた。

 ◆ ◆ ◆

 ヴァレンスは衛生兵たちと川辺の木陰に腰を下ろし、項垂れていた。

 周囲の衛生兵たちは疲れ切った顔でうずくまっていた。その中で、体力がまだ残っているらしい二人の衛生兵が蚊熱重症患者数名の看病をしている。

 患者たちは木陰の岩場で川の字に寝かされ、呻きのような奇声を上げたり、宙を搔くように両手を動かすなど奇行を繰り返している。熱せん妄で意識が朦朧としているせいだ。

 一人の衛生兵が、うわ言を呟く患者の手を握りしめながらなだめるように言った。

「ウタリちゃんが眠り次第血を抜き取るので、待っていてください」

 衛生兵の横顔には、沈鬱な色が漂っていた。

 幼い子供に重度のトラウマを背負わせてもなお、血を抜かなければ次々と傷病兵が死んでいく。その現実に、衛生隊の誰しもが身の砕けるような絶望に浸っている。

 ウタリと衛生兵たちが擦り減らないようにと配慮してくれたのか、ガマン軍医は「献血体が眠り次第採血しろ」と命じた。寝ている時ならばウタリが採血を怖がって感情発作を起こすこともないし、衛生兵たちも少しだけ安心して作業ができる。

 それでも、丸められてくしゃくしゃになった紙のような胸が和らぐことはないのたが。

 ヴァレンスは川でラフマン二等兵と遊ぶウタリを見た。ウタリの弾むような可愛らしい声がせせらぎの中に響いている。

 ──お父さん!

 ウタリと同い年ぐらいの我が娘の呼ぶ声が、脳内で再生される。

 娘はヴァレンスと同じ茶色い髪で、毛が背中辺りまであり、瞳は青い。

 いつもお気に入りの白いワンピースばかり着て、妻がよく『毎日同じものを着るんじゃない』と叱っていた。

 常に大好きな全身が桃色のテディベアを胸に抱えて、「おはよう」「かわいいね」と話しかけていた。

 娘もウタリのように金切り声でキャッキャと笑い、元気に家の中を駆け回っていた。

 娘の愛らしい姿を、昨日の出来事のようにヴァレンスは思い出す。

 二人の姿は、よく似ている。

(ウタリちゃんも、私の娘と同じただの子供なのに)

 治癒の血があるだけで、医薬品のように扱われてしまう。

 もし搾取されるのが自分の娘だったら──。

 嫌な妄想を振り払い、ヴァレンスはまた項垂れた。

 ガマン軍医がヴァレンスのそばにやって来た。

「まだ落ち込んどるのか、ヴァレンス君。我慢だ、我慢」

 ガマン軍医の本名はガルマン軍医というのだが、あまりにも我慢我慢とやかましいため衛生兵たちは「ガマン軍医」と呼んでいた。

 ヴァレンスは頭上から浴びせられる圧の高い視線を感じながら、ぼそりと呟く。

「⋯⋯ウタリちゃんに、一生癒えない傷を与えてしまいました」

 ガマン軍医はヴァレンスの肩を軽く叩いた。

「君は未知を前に無知だった。未知をどうして知れようか。⋯⋯輸血しなければ助からない重傷者と小さな女の子が君の目の前にいたとしよう。重傷者は失血で死にかけ、輸血パックはない。そうしたら、ヴァレンスくんはどうする? 自分の血を抜くか、女の子の血を抜くか」
 
 二択の質問で追い詰められ、ヴァレンスは逃げるように顔を背ける。ガマン軍医はなおも食いかかった。

「そう、我々に輸血パックはなかった。ヴァレンスくんは患者のために、女の子を輸血パックに使った。ウタリちゃんが可哀想だからと患者を見殺しにするような愚者の道を、君は選ばなかった。⋯⋯誇り給え」

 ガマン軍医が去っていく。ヴァレンスは足元の岩に転がる昆虫の死骸を見つめていた。昆虫から飛び出た肉片と体液を、アリのような小さい虫が無数に群がって吸っている。

 ウタリみたいだ、と思う。

 濡れた足音が迫ってきて顔を上げると、全身ずぶ濡れのラフマン二等兵が岸に上がってきた。両腕にウタリを抱えている。遊び疲れたのか、彼女は眠っていた。

「採血を」

 衛生兵がそう言うと、ラフマンは無表情で唇を噛み締めながら頷いた。本当はこんなことをしたくない、という思いが表情から滲み出ていた。

 衛生兵がウタリの腕をメスで切り、血を飯盒の蓋に注ぐ。赤い血が蓋の底を満たしていくのを、ラフマン二等兵は虚ろな眼差しで見つめていた。

 信じていたラフマン二等兵も実は採血に協力的だったと知ったら、きっとウタリはもう誰も信じられなくなって、完全に心を閉ざしてしまうだろう。どうか目を覚まさないでほしい、とヴァレンスは願う。

 浅い皿の縁まで血が溜まると、衛生兵は蚊熱患者たちに少しずつ飲ませていく。彼らは魔女の血だと嫌がらずに飲んだ。

 しばらくすると呻き声も宙を搔く手の動きも収まっていき、彼らは不思議そうに目を丸めていた。

「あれ⋯⋯身体が熱くねぇ」

「何でだ?」

 一人の患者がゆっくり上半身を起こし、周りを見回して不思議そうに呟く。

「川⋯⋯? さっきまで実家の田んぼで畑仕事してたのに」

 衛生兵が残酷な現実を突き付ける。

「それは、熱せん妄による夢です」

 患者は残念そうに顔を歪めて、「夢かよ⋯⋯」と吐き捨てた。

 実家でいつも通りの日常を過ごす天国から、戦場という地獄に引きずり戻してしまったことが、ヴァレンスのひしゃげた胸中を更にぺしゃりと押し潰す。

 これからの行軍中にどこかの部隊と遭遇して医療物資を分けてくれたら、と願わずにはいられない。

 どこからか視線を感じて、ヴァレンスはこちらを見つめる者を探し出す。やがて川を挟んで向こう側の茂みにいるファディルと目が合った。奴は双眼鏡でヴァレンスのほうを見ていた。

 若造め、と嘲笑う余裕はもうなかった。ヴァレンスは嫌な緊張感に険しい表情を浮かべる。

(今度は何を企んでいる?)

 アリフ隊の主導権は今や、実質ファディルが握っているようなものだった。

 カラリヤ湿原の絶望的な戦闘でアリフ隊を勝利へ導いてから、ファディルの立場は劇的に変化した。

 クソメガネ、ファキチと散々ファディルを罵倒していた島兵たちは、手のひら返しで彼を英雄として持ち上げた。

 自決を試みたアリフ中隊長は、ファディルの説得で思い留まった。彼に従っていればカラリヤ湿原で壊滅的損害を被った責任感が軽くなると思ったのか、アリフ中隊長はあっさりと一時指揮権を移譲してしまうほど、ファディルに深く入れ込んでしまっている。

 アリフ中隊長までもが懐柔されてしまった結果、我が隊はファディルに掌握されてしまった。アリフ中隊長だけでなく、島兵たちもみんな尊敬するファディルに同調し、ウタリを暴行することさえ肯定するほどに歪められてしまった。

 包囲作戦の時にウタリを外周の外へ置くなど訴えてアリフ中隊長に突っぱねられた時、ヴァレンスは口を閉ざすしか無かった。優柔不断ではあるが穏やかで繊細な人物であるはずの彼が暴行肯定の空気に呑まれ、まさか幼い子供を傷つけることを許容してしまうとはヴァレンスも想像すらしていなかった。

 ファディルに部隊統率を掌握されたアリフ隊の中でヴァレンスが何かを訴えたところで、もう誰も声を聞いてはくれないし、届かない。今はファディルに懐疑的な衛生兵たちも、いつ彼の言葉に呑み込まれるかもわからない。

 多勢に無勢とは、まさにこのことである。

 ヴァレンスはファディルを呆然と見つめ返した。自分より遥かに高い戦績と信頼を叩き出した彼が、聳え立つ絶壁の上からヴァレンスを見下ろしているように思えてきた。

 ◆ ◆ ◆

「ヴァレンス、次はあなたです」

 茂み越しからヴァレンスを観察していたファディルは、静かに呟く。

 隣にいるノリが訊いてきた。

「班長、次は何をするつもりなの?」

「今のところ、極秘です」

 ファディルは膝上に置かれた「観測班業務日誌」のノートに片手を置く。極秘情報とは、この中に書かれたある次回作戦の内容であった。

「僕にも極秘?」

「はい」

 ノリは深い溜め息をついて項垂れた。カラリヤ湿原の時にも発せられていた、重度の倦怠感を示すくすんだ灰色の生体反応粒子がノリから噴き上がっている。彼は再び何かしらの精神的不調をきたしていた。

「ノリ、精神に不調がおありで?」

 ノリは苦笑いして頷く。

「うん⋯⋯」

「原因は?」

「主にウタリちゃん、かな」

「なぜ?」

「班長に言ってもわからないと思うけど⋯⋯このままじゃ、ウタリちゃんが本当に壊れる。でも、止められない。宿命だから」

 ノリは片手で頭を抱え、ため息をつく。

「以前言っていた、精神のほうが壊れると?」

「うん、そっち」

 精神崩壊、つまり脳の各部位の神経が統合されて発生するクオリアが異常をきたすということだろう。ファディルは視床下部由来の粒子を感知し、観測する。

「クオリア形成の脳神経への損傷を示す粒子は発生しておりません」

「脳神経に傷がなくても、見えない所はボロボロなんだ」

 見えない部分の損傷は、医薬品の脳を直接解剖して観察しなければ確認できない。これ以上医薬品を観測しても興味深い記録は獲得できないと判断し、ファディルは双眼鏡を降ろす。

「それより、なぜ医薬品の精神崩壊予想であなたが倦怠感を感じているのですか?」

 ノリの横顔が半ば険しくなる。

「伝わってくるから。ウタリちゃんが、夢の中で泣き叫んでいるのが。あの子は、夢の世界でもお腹を裂かれてる。カサカサになるまで⋯⋯」

「夢の中が見えるですって? 倦怠感による妄言と受け取っておきます」

 ノリは目元を拭い、「お好きにどーぞ」と返す。

(それはさておき──)

 ファディルは再び双眼鏡を添えて、衛生兵たちが看病している重傷者に焦点を当て、観測する。顔半分、眼窩、四肢、腹の傷口に綿の塊のような蛆虫が群がり、腐食していた。衛生兵が重傷者の口にサイレンスを流し込む。数分後、死亡確認。

 行軍中、衛生隊の治療状況を観測した結果──軽傷者及び蚊熱患者ならば、少量の医薬品の血を投与すれば回復できる。一方で重傷者は大量の血液を必要とするため、サイレンス対象者になると判明した。

 軽傷者も蛆虫の温床になれば、すぐに皮膚と内臓の腐食が広がって重傷化し、医薬品の血では治療不可能になる。

(イルハム兵長⋯⋯部隊の損害が増える一方であるにも関わらず人肉を運んでこないとは、一体どういうおつもりですか?)

 人肉があれば医薬品の体内に投与して、血液量を大幅に増やせるというのに。

 ファディルは腰嚢にぶら下げた飯盒を見下ろす。中には人肉の欠片が一枚入っているが、湿気と熱気でもう腐りかけているだろう。

(──新鮮な人肉が必要ですね)

 サイレンスを投入した患者の肉を分けてくれと衛生隊に頼もうか。しかしノリは高確率で分けてくれないと言っていた。懸念が頭をもたげる。

 川辺付近の木立をくまなく探したが、イルハムはいなかった。彼に会って人肉の調達を命じなければ、どんどん損害率は下がっていく一方である。

 イルハムが人肉の運び屋になってくれたら、どれだけいいことか。

 苦いものを呑み込んだような苦しさが胸に広がる。

 茂みのどこかに身を潜めているとしたら、おそらく見つけることは不可能だ。ここはノリに頼むしかない。

「ノリ、イルハム兵長を探知してください」

 ノリは困ったような顔で俯く。

「あいつは今、ここにはいないよ。⋯⋯でも」

 ノリは後ろを振り返る。

「すぐそばで、僕たちを見ている」

 ファディルも後ろを振り返るが、イルハムの姿はどこにもない。

「茂みに隠れているのですか?」

「うーん、見えないし触れられない場所。あー、でも呼べば出てくるかな? あいつ、勝手に出てこれないんだわ。餌にありつける時しか、出てこれない。というより、出してもらえない」

「餌?」

 ノリはまずいものを呑み込んだような顔で頷く。

「人肉さ」

 イルハムの歯に付いていたあの血は、人肉のものだったのかもしれない。

「やはり人肉を摂取していたのですね。鉄臭くてまずいでしょうに⋯⋯⋯」

 口の中に血液特有の鉄の味が蘇り、胸に不快感が広がる。血抜きして肉に胡椒とハーブを擦り込み、表面をローストしない限り生では食べられないだろう。

 牛肉と人肉の味の違いは些か興味あるが、シェフがいない今は確かめようがない。

 ノリは可笑しそうに笑う。

「鉄くさい、確かにね。でもイルハムの舌には美味しく感じられるんだ。呼びたかったら呼べば? 来てくれるかもよ?」

 ファディルは立ち上がる。

「とにかく、イルハム兵長は呼べば出てきてくれるのですね?」

「たぶんね」

 ファディルは腰辺りまで伸びる背の高い茂みの中を進んでいく。視界を遮るように聳える約三千本の木立の間を目で探ったが、やはりイルハムはいない。

「イルハム兵長、どこにおられるのです?」

 呼んだ途端、突然目の前に黒い長髪を垂らしたイルハムが現れた。映像フィルムが途中で別のテープと差し替わり別の画面が現れたごとく、唐突に──

 眩い光のカーテンが垂れ落ちる明るいジャングルの中で、イルハムの姿は洞穴の入口のような深い闇に見える。

 二回目の出現で脳が慣れたのか、演算処理が狂うことはなかった。

 イルハムの長髪の隙間から金色の淡い光が覗く。ファディルは眉をひそめた。目だ。黒い瞳孔が縦に開き、獣の瞳のように見える。以前は濁った瞳だったはずだが⋯⋯。

 イルハムは老人のようなしわがれた声で訊いた。

「何の用だ?」

 ファディルはすかさず用件を伝える。

「イルハム兵長、人肉の調達をお願い致します」

 金色に輝く瞳が、睨むように細められる。

「人肉の調達?」

「はい。医薬品の血液を増量し生存率を維持するためです」

 イルハムは黙り込み、顔を背ける。続く言葉を探るように、暫くしてから彼は口を開いた。

「──簡単に言ってくれるよ」

「あなたは簡単に人肉を採ってこれたではありませんか」

 イルハムは舌打ちし、面倒だと言わんばかりに重い溜め息をつく。

「そうじゃねぇ」

「何です?」

「いちいちこの世界に出てくるのには力を消耗するんだ。その度に、俺は人間で無くなっていく。目の色が金色になったのはその証拠だ。カラリヤ湿原、人肉調達の時に無駄な力を使っちまってまた一歩バケモノになった。このままじゃあ、下手すればアリフ隊全員を捕食しちまう危険性がある。こっち側への干渉は、しょっちゅうできることじゃない。カラリヤ湿原で俺があっち側から出てこれたのは、単に死体だらけで餌が豊富だったからだ。戦闘に加わったわけじゃない」

 イルハムもノリのように至極遠回しで意味不明なことを言う。抽象的な話を理解するのが苦手なファディルは、問い詰めた。

「この世界に出てくる、とは?」

「マカイから、トコヨへ出てくるってことだよ」

 宗教学の資料では魔界は悪魔の住む世界、常世はこの世のことである。イルハムの説明は宗教学の用語を用いた例え話だろう。全くもって意味不明だが。

「しかし、人肉の調達無しにはアリフ隊は生存不可能です」

 損害率の増加は、観測班及び砲兵隊を業務遂行どころか生存すら危うい状態にさせる。もしノリが死ねば、観測業務は永久不能になる。なんとしてでも阻止しなければならない。

 臓腑が焼け付くような感覚を覚えながら、ファディルは逃げるようにはぐらかすイルハムを追い詰める。

「あなたと私の命令系統を構築します」

 イルハムは金色の目を丸め、彼らしくない素っ頓狂な声を上げた。

「はぁ!? 命令系統!? 何をいきなり⋯⋯っ! 勝手すぎるだろ、おい!」

 突如軽い口調に切り替わったことに違和感を覚えながらも、ファディルは命じる。

「今から私の命令に従ってください。人肉の調達をお願いします、イルハム兵長」

 イルハムは後ろを振り向き、吐き捨てる。

「──お断りだね。俺だってお前らを食いたくないんだ」

 全身から力が抜け落ちてよろけそうになり、ファディルは体勢を整え直す。そうか、こいつは上官命令を聞くような存在ではないようだ。ならば、責任を追及するような発言で突き刺すしかない。

「あなたが人肉を採集してきてくださらなかったせいで本日、一人の負傷兵がサイレンスで亡くなりました。死ななくてよかった命が、消えたのです」

 イルハムの肩が僅かに揺れた。動揺している。ファディルはさらに揺さぶりをかけた。

「あなたの無責任さがアリフ隊の生存率を下げます。どう思われますか、イルハム兵長?」

 イルハムが肩越しからこちらを見る。金色の瞳に静かな怒りが滲み出ていた。

「俺が⋯⋯負傷兵を見殺したって言うのかよ⋯⋯」

 憤怒を押し殺したような問いに、ファディルは頷いて答える。

「つまり、そういうことになります。人肉を採集して頂ければ、死ななくて良い命が助かるのですよ」

 イルハムは前を向き、僅かに肩を震わせながら呟く。

「人肉ってのは、死んだそいつがいたという唯一の証しだ。死んだ奴の感情、記憶⋯⋯生きていた頃の記憶がたくさん詰まっている、魂の記録装置だ。それを、俺は食い続けた。誰かの大切な形見のアルバムを燃やすようなもんだ。人肉を狩るたびに、俺はこの世から誰かの形見を消している。彼らの唯一の墓標は、残された人肉だってのによ。狩るのも食うのも気が重いんだよ、いつもいつも」

 イルハムの全身から、青い海のような紺色の粒子が水泡のように噴き上がる。

「⋯⋯ファディル、てめぇ一人で人肉探してこい」

 そう言い残して、イルハムは姿を消した。彼の背に隠れていた木の幹が、突然視界に飛び込んでくる。

 ファディルは半径一〇〇メートル内を眼で観測しながら、イルハム兵長を呼ぶ。

「イルハム兵長、イルハム兵長」

 逃げられてしまった。ファディルは観測をやめ、項垂れる。

(イルハム兵長の正体は依然不明。誘導も困難です)

 誘導は、相手の心理構造をある程度読み取らなければ実行不能である。

 ファディルは無表情で、拳を握り締める。

「イルハム兵長を、人肉の運び屋にしなくてはなりません」

 しかし最善策は、わからない──。

 ◆ ◆ ◆

 その夜の大休止、ラフマンは暗い森の中へ走り去ってしまったウタリを追いかけていった。

「ウタリ! おい! ウタリ! どこ行きやがったんだ! おーい!」

 万が一敵に聞こえたらまずいので、声を抑えて呼びかける。夜鳴き虫と梟の鳴き声に掻き消され、何も聞こえないけれど。

(畜生、こんな広すぎるジャングル探しきれねぇのに) 

 子供という奴は、目を離した隙にパッといなくなる生き物だ。ユサもそうだった。 

 軽く地団駄を踏み、ラフマンは暗闇の中を探す。 

 闇の中を縫うように、光る何かが過っていった。目を向けると、青白い炎の玉のようなものがふわふわと木々の間を縫うように飛んでいる。光が通りがかっても、木立は照らされなかった。

(なんだ、あれ⋯⋯)

 青い光が迫ってきて、ラフマンは体勢を崩し茂みに倒れ込む。

『こっちだよ、ラフマン二等兵』

 光からノリの声がした。

「おわっ⋯⋯ノ、ノリ一等兵殿!?」

『ごめんねびっくりさせちゃって。これ、精霊術。ラフマン二等兵に波長を合わせて精霊を可視化させているんだ。精霊を媒体にして僕の声を伝えてる』

「精霊術?⋯⋯これが、精霊?」

 ラフマンは両手で小さな精霊を覆った。不思議なことに、光りが手のひらに反射しない。ノリによる擬似霊視だから、反射光がそもそもないのだろう。

『──フレルナ、ニンゲン──』

 頭蓋骨の中に、凛とした声が反響する。

「⋯⋯うおっ⁉︎」

 ラフマンは咄嗟に手を離した。

『あー、ごめんね。精霊、好き嫌い激しいから』

 ノリの気楽な声が届いた。

「俺は好かれてねぇのな⋯⋯」

 ラフマンはがっくりと肩を落とす。ふわりと青い光が、誘うように前方へ飛んでいく。

『付いてきて。ウタリちゃん、こっちにいるよ。班長も』

「班長も?」

 まさかウタリは、ノリとファディルを追って行ったのか?

(解体されてたりは⋯⋯)

 喉の奥がヒヤリとしたが、すぐに頭を振った。

『こっち。付いてきて』

 青い火の玉──精霊火が、夜の木立をふわふわと縫っていく。

 ラフマンは、闇の中をそっと踏みしめながら、精霊火のあとを追った。

(ウタリ、無事でいてくれよ)

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