4-7 決意

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 朝、ヴァレンスは第三衛生壕の非常口から外に出て一人立ち尽くしていた。

 昨日ファディルにことごとく心の中身を粉砕されてからというもの、思考に霧がかかったように白く塗り潰され、治療どころではなくなっていた。

 衛生兵たちに仕事を押し付けるはめになったが、逆に無駄な医療行為もどきをしなくて良いという深い安堵感が胸に満ちていた。気怠くて鉛のように重かった身体は、幾分軽くなっている。

 木々の網目状の幹が、頭上高く伸びている。ヤシの葉に似た大きな葉の隙間から陽光が漏れ出しているも、木の背丈がたかいせいで光は差し込んで来ず、森の中は薄暗く肌寒い。

 斜面には落ち葉が絨毯のように敷き詰めれられ、その上に負傷兵の切断された手足、内臓などの壊死組織が無数に投げ捨てられている。落ち葉に染み込んだ黒い血液や皮下脂肪を蛆や昆虫が喰み、肉片を小動物が加えてどこかへ持っていく。

 動物の肉であれ人間の肉であれ、自然界に捧げられればみな平等に他生物の命の燃料になるのだ。

 ファディルの言葉が脳裏に蘇る。

『血も肉も、体を動かすためのエネルギーです。燃やすか、循環させるかの違いだけでしょう』

 あれはもしかすると、自然界の摂理に沿った発言だったのかもしれないと、今ではそう思える。あいつは人間の倫理が通用しないのではなく、初めから自分たちと見る視点が全く異なるだけだったのだろう。

 そう納得し、独り空笑いする。

「献血機関、か」

 ウタリの無邪気な笑顔が脳裏に浮かび上がるも、頭に満ちる濃い霧がすぐさま塗り潰していく。霧の粒子の隙間からふと垣間見えた、乾燥状態になって泣き喚くウタリの姿も一瞬で白く霞んでしまった。まるで見るな、というように。

 またあの子の身体を切り開き、更に人肉を詰め込まなければ重傷者は助からない。だから消せ、ウタリを徹底的に脳内から消せ。そう心が訴えているらしい。

 ヴァレンスはひきつった笑い声を上げた。

「また、新しいトラウマを植え付けるしかないのか」

 自分が医療のために貫いてきた人道が、医療崩壊を引き起こすことになる。ファディルに突かれた矛盾はヴァレンスの胸の中で黒い渦のようになって、小さい子供を再び切り裂く抵抗感を呑み込んでいた。

 ウタリへの暴行をあれだけ非難したはずなのに、心は今やすっかり献血機関運用へ惹かれてしまっている。

 ヴァレンスはぐらつく頭を抱えて、掠れた嘲笑を続けた。

 背後から足音が近づいてきて、振り返るとガマン軍医がいた。ヴァレンスの腰辺りまでしかない小さい老人は隣に並び、黄ばんだ歯を浮かしながら言った。

「私は、献血機関に賛成しておる」

 ヴァレンスは頭を支える手の指の隙間からガマン軍医を見た。

 賛成、という言葉が風のようにヴァレンスの頭を通り抜けていく。献血機関への拒絶反応が薄らいでいることを自覚し、ヴァレンスはまた乾いた笑い声を上げる。

 衛生隊の最高決定権を握る軍医が「賛成」というならば、否応なしに頭を下げなくてはならない。だが別段、苦痛ではなかった。

 血と皮下脂肪でぎっとり濡れた皺だらけの頬に笑みを浮かべ、ガマン軍医は続ける。

「君は愚者にはなれん。何せ君は人道をよく知っているからだ。人道はその時その場で意味も価値もころころ変わる。金と一緒だよ。人道の変動する流れを君は無意識的に汲める。だから君はカラリヤ湿原で泣き叫ぶ献血体の腹を切り裂けたし、今は献血機関運用の決意を固めつつある。そうだろう?」

 ヴァレンスは息を呑んだ。粘膜で包まれたようにぎらつくガマン軍医の眼差しは、ヴァレンスの内心の傾きを読み取っていた。

 自分が信じてきた人道は、人の道を踏み外さないことであった。たとえどんな状況であっても、不当な暴力は許さない、倫理に逸れたことはやらないと。

 だがカラリヤ湿原で大損害を被り負傷者多数発生したあの時の自分は、人道の意味を無意識的にすり替えていた。人命優先、ウタリの意思は二の次。だが彼女にトラウマを植え付けてしまったと思い知ってからは、また人道の意味はすり替わって「自分は人の道を踏み外した」と実感し憂鬱感に苛まれた。

 そして今度は、医療の名のもとにその道を再び塗り替えようとしている。

 脳内の白い霧にあの虚ろな赤い瞳が浮かび、冷笑を含んだ声色で訊いてくる。

『あなたは「人の道を踏み外したくない」という個人的感情かつ非合理的な理由で、重傷者を放置するおつもりで?』

 貴様の言う通りだったよ、食人鬼。と負け惜しみを交えてヴァレンスは内心で返す。自分が信じてきた人道は、結局医療行為には何の役にも立たなかったのである。

 決意の扉の一歩手前で踏みとどまっていた理性が、また一歩前へ進んでいく。

 脳内の赤い瞳があの言葉を思い出させる。

『あなたは以前、医薬品の腹を裂いたでしょう。泣きじゃくる医薬品を意に介さず、内臓を取り出し血を絞り尽くした。全身の体液がほとんど無くなるほどに。あなたのおかげで、アリフ隊は七十名が生き延びられたのです』

 ──あなたのおかげで、アリフ隊は七十名が生き延びられたのです。

 ヴァレンスは足元の肉片に群がる米粒のような蛆虫と蟻を見つめた。

 ──かゆい、かゆい、かゆいぃぃぃぃ!

 食まれる肉片がウタリの声で泣いているように感じられた。だが胸を突き刺すような鋭い痛みは、嘘のように一切走らなかった。虫たちに食まれる肉片をヴァレンスは呆然と眺める。

(我々は再び、マトリファジーをしなければならない)

 虫の子供達が生き延びるために、母を食うように。

 そうしなければ、生命は回らない。

 虫も、兵も同じだ。

 ヴァレンスの虚空のような胸の内に冷たい芯が宿る。

 決意の扉が押し開かれ、隙間から光が差す。光が胸の芯を照らし出し、輝かせる。鈍い光を反射させるそれが、ヴァレンスのこれからやるべきことをはっきりと浮き彫りにする。

 半開きの瞼に力がこもり、ぱっと見開かれた。

(⋯⋯やらなければ)

 かゆい、かゆい、かゆいというウタリの悲鳴が脳の片隅へ消え去っていく。

 ガマン軍医がヴァレンスの背中を軽く叩く。

「⋯⋯やる気になったか?」

 ヴァレンスは頷き、今度は芯のある声色で返事をする。

「⋯⋯はい」

 ガマン軍医は踵を返して言った。

「来たぞ」

 壕から外へ誰かが近づいてくる音が背後から聞こえ、ヴァレンスは後ろを振り向く。銀髪赤目の青年がそこに立っていた。

(食人鬼⋯⋯)

 ファディルを見ても、もう恐怖も緊張感も感じなかった。彼に心身ともに鎖を繋がれ、身動きも思考も牛耳られているような無力感が全身に満ちていた。

 ファディルはヴァレンスたちのそばへ近寄り、瓶の中に入っている赤い血を見せつけた。

「ヴァレンス衛生隊長殿、今からあなたにこれを飲んで頂きます」

 まさか人血を飲ませる気か、とヴァレンスは身構える。

「それは⋯⋯?」

「医薬品の血液です。ご安心ください、味は果物と変わりありません」

 ウタリ壕には果物のような爽やかで甘ったるい匂いが立ち込めていた。あれは彼女の血の匂いだったのだろう。つまり試飲可能な味なのかもしれないと思い直すと、抵抗感は一気に和らいだ。

 ファディルは瓶の口をヴァレンスの顔に近づけた。ウタリ壕に満ちていたあの芳醇な香りが鼻腔を刺激し、喉の渇きを覚える。身体が血を求めている。

「美味しいですよ。ガマン軍医殿も先ほど飲まれました。さぁ、どうぞ」

 ヴァレンスは瓶を受け取り、中から垂れ落ちてくる赤い液体を見つめる。

 これは──悪魔との血判である。

 舌にとろりとした粘性の液体が触れ、次に様々な果実を濃縮したような強烈な甘みが口いっぱいに広がった。おいしい。これはおいしい。ヴァレンスは喉を鳴らして、ウタリの血を飲み干す。

 ぷはぁ、と果実の香りを含んだ吐息を吐き、ヴァレンスは微笑んだ。

 血判は押された。

 もう後戻りはできない。

 ファディルはヴァレンスの決意を確かめるように訊いた。

「人道と人肉、どちらを選びますか?」

 進むべき道は、血と肉の一本道。

 ヴァレンスは迷うことなく答えた。

「──人肉」

 ◆ ◆ ◆

 ファディルが勝手に医薬品倉庫から試験薬を盗み、第三衛生壕の重傷者たちを助けたという噂は、一部の衛生兵たちからうっかり漏れてしまった。噂は、瞬く間に遊撃区全体へ広まった。

 第一大隊の歩兵居住壕にいる歩兵たちは、川の字に並んだ寝袋の上に座りながら、この噂を話していた。

「ファディル少尉がやったのは不法侵入罪、物資損壊だが、結局は衛生隊の無責任を浮き彫りにしただけだな」

「んだよ。せっかく薬があるのに、ほったらかして手足ちょん切ってただけだもんな」

「変人、大活躍じゃんよ」

「カラリヤ湿原の奇跡、森の包囲突破の奇跡の次は、不法侵入罪の奇跡か。英雄様は奇跡を起こしすぎだ」

 どっと笑いが沸き起こる。

 負け戦続きで部隊が壊滅していく中、ただひとり奇跡を連発するファディルの武勇伝だけが、セルク島防衛軍の希望の灯火だった。

 この地獄で本当に助けてくれる奴は、どんな規律違反でも神のように讃えられる。

 もはやファディルを英雄に祭り上げて祈ることでしか、兵士たちの心がもたなかったのだ。

「不法侵入罪事件のおかげで、ファディル少尉を神のように崇める空気が遊撃区には広まってきている」

「いやいや、試験薬盗んだらその分別の負傷兵を治療できないだろ? 結局別の奴らは殺したことになる。神は言い過ぎだ」

 一人の歩兵が、ぽつりと呟く。

「試験薬を盗んで重傷者たちを治したが、その分別の負傷兵たちが助からなかったとしたら⋯⋯それは、どうなんだろうね?」

「ま、どっちみち誰かは死ぬさ。助かった奴が多けりゃ、それでいいんじゃねぇの」

「ファディル少尉のもとにいりゃ、奇跡的に助かるかな」

「⋯⋯まぁ、どうせ他に頼れる奴もいねぇしな」

「怪我とか病気した時に試験薬分けてくれるかもしれないし」

「ファディル少尉の武勇伝さえ信じてりゃ、死なずに済む気がするよ」

「じゃ、俺も信者になろっと」

「俺も俺も」

「ファディル様万歳! なんちって!」 

 また、どっと笑いが起きた。

 ファディルの引き起こす奇跡にすがるしか、もう希望はなかった。

 山岳の遊撃壕という閉塞的空間で今、密かにファディルを信仰し熱狂する空気が、密かに広まりだしていた。

 ◆ ◆ ◆

 遊撃区が信仰に染まりつつあるのを知る由もなく──ファディルは、中隊長室で話し合うアリフ隊長とヴァレンスの会議を入口そばで盗み聞きしていた。

 ヴァレンスの疲れ切ったような掠れ声が聞こえた。

「私は⋯⋯この目で奇跡を見てしまったのです。放置されていた重傷者たちが治癒された姿を」

 ラフマン二等兵の意見具申は完全に裏目に出た。ファディルの印象が、勝手に医薬品倉庫を荒らした愚か者から、見捨てられた負傷兵を救助した者へ大逆転した。これにより、警告書を出した衛生隊のほうがむしろ無責任だった、という印象を遊撃区内各人に植え付けることができた。

 最高機密である献血体を知らない者たちは、第三衛生隊は負傷兵を治せるほどの試験薬がたくさんあったにも関わらず放置したと誤認し、非難した。第三衛生隊の面子がズタズタになったこの隙に、ファディルはアリフ隊に属していた衛生兵たちに大義名分を吹き込んだ。

『あなたがたは、私の開発した献血機関を用いて多くの兵を救うのです』

 医薬品は最高機密である。献血機関の作業員はアリフ隊の衛生兵のみで運用させる。

 ヴァレンスをはじめとするアリフ隊の衛生兵たちはこの大義名分に、そしてファディルにすがりつくしかなくなった。

 すっかり及び腰になった様子のヴァレンスも、ファディルに情けなく尻尾を振る忠犬に変わり果てた。

 これにより、ファディルは第三衛生隊を手中に収めることに成功した。血を生産して医薬品を増やせば、第二、第一衛生隊も意のままに操れる。

 医薬品の血を使い、様々な負傷兵で再生実験ができる可能性が出てきた。

 アリフ隊長の声がする。

「なぜ大量の血を生産できたんだ?」

「⋯⋯極秘です」

 人肉を嫌がっているせいなのか、ヴァレンスは黙秘するようである。

「そうか」

 その一言には、自分もこれ以上踏み込めない無力さと諦めが滲んでいるように思えた。

 衛生隊の情報管理はヴァレンスにある。彼が極秘といえば、たとえアリフ隊長でも理由は問い詰められない。

 なぜそんなにも人肉を忌み嫌うのか、未だに理解できない。

 アリフ隊長が疑問を呈する。

「それにしても、なぜファディル少尉はやたら人を助けたがるんだ? 一観測兵が、自分の職務を逸脱した行動をなぜ」

 イルハムにぶつけられた疑問と同じだった。本来なら観測兵が衛生隊を仕切るなどありえない。ファディルもそれは理解していた。

(私だって、よくわからないのですよ)

 ──「調和」「綻び」「修復」

 ヴァレンスに献血機関の必要性を訴えかけていた時も、調和の数式が演算の中に混じっていた。

(調和と綻びと修復とは、何ですか)

 聞いても答えは出てこない。

 自分の手のひらを見つめる。感覚が途切れ、現実が霞み、手だけが無重力空間に浮かんでいるようだ。

 まるで、誰か別の存在に遠隔操作されているような。

(──身体冷却式)

 ファディルは手のひらから視線を上げる。

 自分が自分ではないような気がしてきた。

(──私は、私だけなのに)

 ふと気づく。もしかすると献血機関も、自分の意思で創ろうと思っていたわけではなかったのだろうか。表層意識では知覚できない遥か無意識から湧き上がってくる何かに突き動かされて、やっていたのだろうか。

(まさか献血機関で何千何万の命を救うという大義名分も、私の発想ではなく、調和の数式が私にそう言わせていたと?)

 イルハムに大義名分を吹き込んだ時の記録を呼び起こす。

(調和)+(綻び)+(修復)=『私に協力して頂ければ、あなたの飢えも罪の意識も、貢献に変わります。あなたは、何百、何千の兵を救う英雄になれるのですよ。これほど素晴らしい贖罪の方法はありません』=(発言実行)+(生贄)←(祈り)+(救済実行)

 心臓が凍りつくような戦慄が走る。

(発言実行、救済実行?)

 発言実行、つまり大義名分を『吹き込ませるよう操作』されていたのだ。無意識の奥深く、認知できない暗闇に潜む何者かに。

(祈りと生贄⋯⋯?)

 祈り──その言葉が、撃退作戦実行前の行軍中にノリと交わした奇妙な会話の記憶を引きずり出す。

『医薬品を鹵獲してから、演算式に『調和+綻び+修正』という気味の悪い変数が混じることが増えたのです』

『それはね、班長がみんなの『生きたい』という祈りを無意識的に受信して、救済しようとするから出てくるものだよ』

『祈りを受信、ですって⋯⋯?』

『班長には見えないけど、僕には見えるよ。みんなから祈りの念が飛び出して、班長のところへ集まっていくのを。それを班長が知らない間に受け取っているのもね』

『ウタリちゃんと出会ってから調和と綻びと修正の変数が出るようになったのは、生贄の対価が釣り合っているからさ』

(祈りと生贄。献血機関もそれと関係があるのですか?)

 突然、脳内で記憶が再生される。

 一人の島兵が、片手にのせた蛆虫団子を掲げて祝詞を唱えていたあの時の記憶──。

『ヴィシュヌ様、ヴィシュヌ様、我らをお助けください』

 蛆虫をすり潰して固めた虫肉団子を供物に捧げる島兵を見て、ファディルは彼を嘲った。

『まだ神というありもしない幻にすがっているのですか?』

(我らを、お助けください⋯⋯これを私が無意識的に受信していたのですか? ノリ)

 混乱が思考を掻き乱していく。

 ヴァレンスの声がした。

「私はずっと、重傷者を助けることができなかった。だがあいつは⋯⋯ファディル少尉は答えを教えてくれました」

 ヴァレンスの掠れた声が中隊長室に重苦しく響く。

「献血体及び、負傷兵への投与実験は必須です。ファディル少尉が実験をしたいと頼み、私は承諾しました。ファディル少尉の監修のもと、献血機関の実験を行うつもりです」

『あいつが実験をやりたいと言い張ったのだから、自分は悪くない』――おそらくそう言い訳できる免罪符を得たことで、ヴァレンスはファディルのどんな要求にも従うようになったらしい。

 おやおや、昨日の「人道に反する」という発言はもう撤回ですか?――ファディルはその様子を、心の中で冷笑した。

 ヴァレンスは人道ではなく、人肉のほうを選択したのだ。

「監修? あいつは観測兵だぞ。衛生知識があるわけ──」

「ファディル少尉は献血体壕に忍び込んだ際、献血体の臓器や再生過程の記録を詳細に取っていました。しかもそれらの記録の中には、顕微鏡で見なければわからないレベルの情報もありました」

「な、なんだって⋯⋯」

「細胞壁や線維組織の詳細⋯⋯肉眼で見えるはずがない。あり得ない、と思いました。そして、思い出したのです。噂だけですが、ファディル少尉は景色を見ただけで風速、気流がわかるとか、ミリ単位で弾道演算できるとか」

「確か、そう言われているな」

「常人に見えない、理解できないものがファディル少尉には見えるのが本当なのかと思い、私は今朝、観測兵たちに聞きに行きました。特別に記録を見せてもらい、驚愕しました。本当に彼には、一目見ただけで自然環境の情報がわかってしまうのだと」

「⋯⋯はぁ」

「それに、ファディル少尉には医学知識もそれなりにあるようです。人体の臓器の位置、形、線維組織の描き方も完璧でした。実験の監修ができるほどの観察眼とある程度の知識はあります」

 ヴァレンスの驚嘆するような溜め息が聞こえた。

「なぜ、我々には見えないはずのものが見えるのか、私にはわかりません。ファディル少尉は、我々と違う目を持っているのかもしれません。それでも、私はもうファディル少尉に頼るしかない。自分一人では、もう何もできないのです」

 ──忠犬がまた一匹、増えた瞬間だった。

 ファディルは無表情で、向かいの壁を呆然と見つめる。

(ヴァレンス衛生隊長殿。これであなたの言う人道は、医薬品の腹を裂き人肉を埋め込み、血を搾り取り、負傷兵たちを助ける意味にすり変わりました。『人』肉をひたすら医薬品に投与する『道』を歩んで頂ければ幸いです)

 ヴァレンスが中隊長室から出てきた。黒い隈の浮き上がった瞼から見える瞳は、生気も光も感じられなかった。感情も意思も全て死んだ暗黒が広がっていた。

 空っぽの人形になったヴァレンスに、ファディルは棒読みのような口調で言う。

「ヴァレンス衛生隊長殿。あなたの信じる『人道』がいかに外道なものであったか、私の実験で存分にご確認ください」

 ヴァレンスは無言で微笑みを浮かべた。

 本来ならここで上官として叱責し鉄拳制裁を食らわせるはずだが、ヴァレンスにはその気力すらも残されていないようであった。

「では、行きましょう。残り一匹に首輪を付けます」

 ファディルとヴァレンスは歩き出した。

 もう一匹の、最後の忠犬を手に入れるために。

(──ラフマン二等兵、次はあなたの番です)

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